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青石の里・小川町 第3回

 堂平山から団体研究と
    地学ハイキングがはじまった!

 最終更新日:2016年3月21日
左から 堂平山、笹山、笠山
 堂平山(標高876m)は小川町の南西のはしにそびえ、小川町の最高峰である。この山の地質構造をめぐって、古くから多くの議論がなされた。
 20世紀初頭にヨーロッパアルプスの押し被せ構造が明らかとなり、地質構造を考える主流となった。藤本治義はこの考え方をもとに、1937年に関東山地北東部の外秩父山地に二つの押し被せ構造を提唱した。それは三波川帯の大霧山ナップとその上に重なる秩父帯の堂平ナップで、堂平ナップは浸食のためいくつかのクリッペとなり、その一つが堂平クリッペである。
 井尻正二ほかはこの考え方に疑問をもち、1943年12月に集中的に堂平山の調査をおこなった。この調査こそ、団体研究のはじまりである。彼らは1944年に堂平クリッペと大霧山ナップを否定する論文を発表し、堂平クリッペについては変はんれい岩の貫入によって捕獲された珪質岩類で、ルーフペンダントとして残されたものとした。また、関陽太郎は1957年の論文で、御荷鉾緑色岩類とその上の珪質岩類が同時異相か整合漸移で、一部にはんれい岩の貫入体があると述べている。1982年に安戸団体研究グループは、詳細な調査をもとに両者が整合関係であるとした。
 1980年代以降、放散虫化石による層序の見直しがなされ、地質構造の再検討がされた。堂平山周辺の地質も、1992年に牧本博と竹内圭史は、御荷鉾ユニットの上位に珪質岩ユニットが重なり両者の関係を断層とした。1999年発行の小川町史の中で、関東山地団体研究グループは御荷鉾緑色岩その上位に低角断層で切断された珪質岩類が重なることを示した。
 1965年10月24日日曜日、地団研埼玉支部は、堂平山の地質構造についての地学巡検をおこなった。これが埼玉支部の日曜地学ハイキングの始まりである。このあと1年に10回おこなわれて、2016年の今年で500回を迎える。
 このように堂平山は、地学団体研究会の科学運動にとって、忘れてはならない山なのである。

(埼玉支部 保科 裕)*敬称および文献は略しました。



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