2019年5月11日、箱根ジオパーク・小田原エリアの見学をテーマに、神奈川と埼玉合同の地学ハイキングが開催されました。参加者は26名でした。JR小田原駅に10時30分に集合し、案内者の真木和男さんと富澤節子さんから「箱根ジオパークガイド1」のパンフとインカムが配布され、説明の後、小田原城に向かいました。
小田原城は、箱根外輪山から続く尾根の先端にあり、地層は箱根火山から噴き出した火砕流堆積物の軽石と火山灰から構成されています。 戦国時代の小田原北条氏は、箱根火山の火山灰が堆積した関東ローム層を、土塁と堀に利用しました。また、箱根火山の安山岩質の溶岩を四角に加工して石垣に利用しています。小田原城の崩れた石垣を見ながら、二の丸跡にある小田原市郷土文化館の展示を見学しまし。その後、遊園地の脇から東海道線の線路沿いの道に出て、トンネルをくぐり、消防署の交差点付近には、北条時代の石の加工場跡が発見されたとのことです。早川口遺構は、小田原北条氏が秀吉の攻めに備えて造った総構の一部で、土塁と堀を二重に配したつくりとなっていました。
左手に早川港(小田原漁港)を見ながら歩いて、早川駅でその後の登り道に備えて、しばし休憩しました。その後、箱根火山の溶岩でできた五輪塔のある曹洞宗の海蔵寺を経て、後ろに小田原の町を見ながら、山道を登りました。道の途中には、豊臣秀吉、徳川家康はじめ1590年の小田原合戦に参戦した武将と千利休や淀殿の説明板がありました。豊臣勢は総勢18万から22万の大軍で北条氏を包囲し、支城を次々と打ち破り、籠城した北条氏直はやむなく降伏して開城したのでした。
途中、右手に、もともとは小田原城の出城だったのに、豊臣方の細川忠興が 奪取して陣を張った富士山砦が見えました。富士山も箱根外輪山をつくる溶岩で構成されているそうです。予定よりかなり遅れ、一同、疲れ切って石垣山一夜城に何とかたどり着き、昼食となりました。この城は、豊臣秀吉が小田原北条氏を攻めるときに造った総石垣の城です。実際には80日かかったのに、秀吉は城を樹木で隠し、完成すると樹木を切って、一晩で完成させたように見せかけ、北条勢を驚かせたのでした。城内にはシャガの花が咲き、物見台からは、小田原の町と相模湾が一望でき、疲れを忘れさせました。ここで、真木さんは、西側のユーラシアプレートに向かって、北から北米プレートが、南西からフィリッピン海プレートがもぐりこんで、3枚のプレートの境界に箱根火山が形成されたと説明しました。また、北米プレートとフィリッピン海プレートの境界が、大磯丘陵の南西の縁にある国府津-松田断層となっているのです。一夜城の石垣は、箱根火山の溶岩を加工せずに自然のまま利用した野面積と呼ばれる方法で積まれていました。石垣の溶岩は、外輪山を構成する約30~25万年前の米神溶岩と25~23万年前の江の浦溶岩の安山岩および、12万年前に前期中央火口丘から流れた宮ノ下溶岩のデイサイトです。
もとの道に戻り、今度は山を下って、入生田に向かいました。途中、姫ノ水橋からは上二子山、下二子山、駒ケ岳、神山などの箱根火山の中央火口丘と、塔ノ峰、明神山などの外輪山を見ることができました。箕ヶ窪橋から狭い階段を下ったところに、早川石丁場群が保存されていました。山の斜面の大きな転石を江戸城の石垣用の石に加工したのです。ノミで石の割れる筋目に矢穴をあけ、そこに水を含ませた樫の木、また鉄の楔を入れ、ゲンノウで叩いて石を割りました。そのように加工した石は、斜面に造られた石曳道を通して降ろされました。石は、米神溶岩と江の浦溶岩です。入生田に降りる道の左手には、石垣山に続き尾根が崩れて落ちてきた巨大な岩が斜面に留まっていました。また、関白沢の左岸の段々畑の土留の石垣には、板状節理を利用して板状に割れた宮ノ下溶岩を組み上げています。
山道を下って、今日の最終目的地である入生田の県立生命の星・地球博物館が見えたときは、ほっとしました。博物館では、企画展「箱根ジオパーク展~身近な火山と友達になる」を見学しました。ここには、「箱根ジオパークガイド2~5」も置いてあり、それぞれ、真鶴、湯河原、神山、湯本の各エリアに関するガイドで、今後これらのコースも地ハイで取り上げたいと思いました。一部の参加者は、常設展も見学しました。途中大幅に遅れたにもかかわらず、最後は予定時間の15時30分に終了できました。熱心に解説してくださった真木和男さんと富澤節子さんに厚くお礼を申しあげます。
{神奈川支部 後藤仁敏、埼玉支部 松岡喜久次}(参加者 28名 )
|
|
小田原城址の石垣 |
|
早川石丁場群の岩を割ったときの矢穴 |
このページの最初へ
|