地学団体研究会埼玉支部

日曜地学ハイキングの記録


第501回〜第510回 (2016年9月〜2017年7月)


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第501回 秩父札所の地学めぐり 10 秩父札所33番菊水寺と
       古秩父湾堆積層の露頭をめぐる
 2016年9月18日

 今回の地ハイは、西武秩父駅から吉田元気村行きのバスが運休となったため、コースを反対回りでおこなうことになったのでした。西武秩父駅に集合するときは、ぽつぽつと雨になり、最初のようばけの露頭では、やや強い雨となったのです。ようばけは国指定天然記念物となり、化石採取はできなくなったため、露頭を前にしての説明となりました。これだけ大きな露頭も貴重ですが、化石採取をすることで露頭が崩れ、露頭面がきれいに保たれているとこととか。
 小坂下(こさかげ)(藤六(とうろく))の「海底地滑りの跡(スランプ褶曲)」に降りるところでは、坂は滑り、ロープが頼りで川岸に降りるところの普段水が無い沢にも、水が流れているなどたいへんでした。雨の日は、特にしっかりした靴でないといけないと感じたのでした。「海底地滑りの跡」がはっきりとみることができる露頭として、貴重なものです。札所33番菊水寺で12時を過ぎるが、帰りのバスに乗車するために、10分のトイレ休憩。そして、取方の大露頭へむかって歩くが、雨は降り続いていました。この露頭も国指定天然記念物であり、対岸から観察したのです。この露頭にも「海底地滑りの跡(スランプ褶曲)」がわかるのでした。この後は帰りのバス停へ急ぎ、14時26分のバスに乗り無事に帰ることができました。帰りのバス内では、私や案内者の方などおにぎりを食べていたのでした。
 小幡さんの案内は、歌碑の内容やその石材、道沿いの石造物と石材などと盛り沢山です。時間の都合で十分に時間がとれなかったのが残念でした。案内パンフは多くの情報があり、読み直してみるとさらに勉強になります。

{川越女子高校 松岡 喜久次}(参加者 19名)

「ようばけ」の大露頭を見上げる
小坂下の「海底地滑りの跡」

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第502回  荒川の石しらべと真田安房守も攻めあぐねた
          鉢形城の地形地質
  2016年10月16日

 第502回の地学ハイキングは「オールカラー荒川の石」刊行記念の地学ハイキングでした。地学ハイキングの「川原の石の調査」をきっかけに作られた地団研ハンドブック「荒川の石」がカラー版となって、リニューアルされたのです。その新しい「荒川の石」を使っての最初の川原の石の観察は、このハンドブックの撮影のメイン会場だった寄居町の荒川となりました。
 寄居駅から段丘の地形を頭に置きながら正喜橋下の荒川を目指して歩きます。午後の観察になる鉢形城の地形も「段丘」がキーワードの1つです。
 荒川のレキの河原に着くと、さっそく「荒川の石」を使ってのレキの調査です。グループに分かれて、地面に伸ばしたテープの下にあたるレキをすべて拾い出して、その岩石の特徴から仲間わけをして、名前をつけました。さらに、今回はプラスチックケースを使って、一人一人が岩石の標本箱を作りました。用意された100円ショップで買えるプラスチックケースには12種類の岩石を入れることができます。みんな良い標本を探して熱心に川原の石を見て回りました。お土産の出来具合はどんなだったでしょうか。たっぷり時間をかけてレキ調査と標本作りをしたあとには、お昼の暖かい豚汁とキノコ汁が待っていました。
 午後は、正喜橋下に顔を出している「寄居酸性岩類」と名前が付けられている溶結凝灰岩の観察から始まりました。この溶結凝灰岩はとても固くて、鉢形城の中を流れる深沢川が渓谷を形成しています。深沢川が荒川に流れ込む場所も渓谷状になっていて、四十八釜と呼ばれるたくさんの渕のいくつかを見学しました。そして、その釜に残されている伝説のいくつかも紹介してもらいました。
 荒川での観察の後は、鉢形城へ向かいました。段丘面に注意しながら、そして深沢川の作る地形を考えながら、自然のものと人の作った土塁などの地形を見ながら歩いていくと、やがて鉢形城歴史館に到着です。
 歴史館を見学したあと、さらに広い鉢形城の中を歩いて行くと、復元された石積みの土塁が現れました。午前中に川原でレキをじっくりと観察した眼が、その土塁を作っている石に鋭く注がれます。「結晶片岩は少ないな。」「これは閃緑岩だ。」「荒川から持ってきたのか、それとも深沢川からかな。」等など、復元された石積みを前にして、史跡見学とはひと味違った観察と会話が繰り広げられました。ここで石積みをこれほど熱心に観察した人たちはこれまでいなかっただろう…とは案内者の言葉です。最後に眼下に荒川の流れが見える断崖の上の道を、寄居の町の段丘の様子を見ながら、そして、鉢形城攻めのときには荒川の対岸に真田の陣があった、などと歴史のことも話ながら、のんびりと歩いて、やって来た正喜橋へ戻ってきました。鉢形城の地形を探し回りました。

{本庄高校 栗原 直樹}(参加者 51名)

荒川の石しらべ
豚汁ときのこ汁

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第503回 隅田川を下り、
        荒川河口と地形をたずねて
 2016年11月20日

 普段とは違う都内「浅草駅」前での集合。なのにメンバーはいつもの服に靴。慣れない風景に多少の不安顔で皆集まっていた。ほぼ時間通りにそろったところで案内者から今日一日の計画を聞き、出発となった。
 隅田川沿いの公園をーい堤防にそって上流へ歩く。言問橋を過ぎてまもなく待乳山聖天に着いた。見回すとこの辺りはほぼ0m地帯のようである。なぜこの平地に9.6mの待乳山(真土山)があるのか?という疑問が。地質学的には「根無し山」との説明もあった。高い堤防が目に付いてしょうが無い。川面も見えない(無粋だなぁー)と思いつつ浅草橋へ戻る途中でこの堤防に付いての説明があった。堤防を作る時に過去の災害(伊勢湾台風)を参考に満潮時の高さを計算して決められた高さであると。一度水が出ると引く場所の無いこの辺りを守る大切な重要な堤防であった。(反省します。)浅草橋の水上バス停より3階建の竜馬号(定員560名)に乗船した。
 水上バスに乗車中に12の橋をくぐり抜けたが、隅田川にかかる橋17は6種類あり、高さも頭上すぐから、5〜6m上までと様々あった。また川にも信号機があることを初めて知った。そして全ての橋には名前が書いてあった。40分程で浜離宮へ着き下船となった。浜離宮で昼食。ゆりかもめを見て、ここから隅田川・荒川と風と共に埼玉の地まで飛んでくるのかと思った。少しゆっくりした昼食後いよいよ都心の地を……と思った門の前で久しぶりの集合写真。パチリパチリととりまくった。
 いよいよ都心での地学ハイキング、何が見られるのか?という気持であった。案内者より浜離宮〜新橋〜愛宕山と歩く時に、「日比谷埋没谷」の上を歩く事になると説明があった。日比谷埋没谷は有楽層(沖積粘土層)と東京層(洪積層しまった砂層)が重なっている谷地形である。その上に重い建物があるといづれ建物の「抜け上り」が起こる。地盤沈下による抜け上りに注意して歩いてくださいとの事だった。周りは全てビルばかり。道路も舗装。草一本はえる土も無い。新橋に入ってすぐに歩道と1cm位の差のあるビルが出てきた。車道・歩道・ビルへと少しづつひびが入りあきらかに坂になっている。虎の門辺りのビルになるとスケールが違う。ビックだ。それに古いもの新しいものと混ざっている。抜け上り方も半端では無い。しかし基礎がしっかりとしているのか、ゆがみはさほど感じられなかった。(はたして……?)但し地面から完全に浮き上がっているとは感じられた。測った訳では無いが10cm以上はすき間があったと見えた。愛宕山までの道は、休日と祭りが重なっていた為か歩行者天国状態で、皆広々とした道を我物顔で好き勝手に歩いていた。愛宕神社の山門前の階段下に着いて、思わず見上げてしまった。あまりにも急な階段である。話に聞く馬がココを登り下ったのかと疑ってしまった。(本当のようだが…….)。話し掛けるメンバーに「こんな所で話し掛けないでよ」と文句言いつつも、上まで登った。標高26.7mの小山はどのようにして出来たのか?である。愛宕山は地形的にみて西に分布する淀橋台地が切られて、孤立丘になったと考えられている。日比谷の入江の埋立てに使われたと思われる。ここから最終見学地点・日比谷公会堂へ向かう。途中虎の門・霞ヶ関界隈を歩いた。その道すがらビルの根本をズーと注目する。少しづつビルが浮いているとハッキリと分かるようになる。入口の階段が継ぎ足されているのか?と思われる所もあった。
 最後の見学地点・日比谷公会堂が、使用禁止になっている事は知っていた。いつも夕方からここへ入っていたが実際3年振り位に昼間見て大変驚いた。沈下があまりにもひどいのである。建物が平均に沈んではいない。場所により違いがある。正面入口前・海側霞ヶ関側ではそれぞれ沈下量が違っているのが、目視でもハッキリ判る。15〜20cmはちがっているようだ。日比谷埋没谷側へ傾いているようだった。1929年に松材2000本以上を使っても当時の技術では岩盤まで届いていないのであろう。90年後の結果が目の前にあった。今日のハイキングはここで解散。水上バス40分歩行約7.6km。三宅島以来の船で「荒川を歩く」を終わった。風弱く日差しに恵まれたハイキングだった。

{地ハイ係 小松 恵}(参加者 34名)

浜離宮
愛宕神社

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第504回 賢治来県100周年 寄居付近
         宮沢賢治の足跡を訪ねて
 2016年12月18日

 2016年は宮沢賢治来県100周年ということで、あちこちで記念行事が開かれたようです。私たちの地ハイでも、12月18日寄居町教育委員会の後援を得て「宮沢賢治の足跡」を訪ねる地学ハイキングが行われました。案内者は寄居町在住で博物館に勤務されていた本間岳史会員です。当日は天気も穏やかで暖かく90名ほどの参加者がありました。町の後援や町民対象の本間さんによる事前の講演会、町の広報に掲載されたことなどもあり、いつもの2倍ほどの人数です。係の他、数名の会員の参加で安全な運営に心がけました。案内書もカラー版で見やすいものでした。
 まず、明治以来の地質研究者の定宿だった「山崎屋旅館(宿泊はできませんが食事ができるそうです)」の外観を見て荒川北岸の「宮沢賢治の歌碑」へ向いました。
   つくづくと「粋のもやうの博多帯」荒川ぎしの片岩のいろ
   毛虫焼く、まひるの火立つ、これやこの、秩父寄居のましろき、そらに  
 の二首が赤色花崗岩に刻印されています。
 つぎの見学地へ向かう途中も「雀宮公園(七代目松本幸四郎の別邸跡地)」、鮎飯で有名な「京亭」など話題に事欠くことありませんでした。名勝・玉淀川原では賢治も見たであろう寄居酸性岩類、寄居層、断層破砕帯を見学しました。この場所は地学ハイでもよく見学するところです。
 もとの道にもどり「埼玉療育園」下の川原へ向かいます。広々した川原で、観光客もいません。レキ種も豊富です。風紋も見られました。ここで寄居層の砂岩、断層鏡肌を観察しました。特に鏡肌は見応えがあります。上流まで足をのばし御荷鉾緑色岩類も観察できました。
 公園で昼食をとり、いよいよ「象ヶ鼻」へ向かいます。ここで採取した賢治の標本が今でも残っていて、標本には「輝岩 大古界 ミカブ層 寄居」の文字があるということです。賢治がしたように私もハンマーで叩いて手に取ってみました。貫禄のある緻密な緑色の岩石でした。「末野石切場跡」を遠目で見ながら、「玉淀ダム」を見学しました。名前は知っているけど、近くで見学したひとは少ないのではないでようか。
 最後の見学場所は「波久礼石切場跡」で旧道を歩きながら見学しました。昭和10年頃までは緑泥石片岩が採石されていたそうです。波久礼で賢治が採取した標本の「滑石片岩」「緑泥片岩」が残っているということです。100年前の賢治に思いを馳せながら、見所満載の寄居町を歩き波久礼駅で解散しました。 (久保田郁夫 羽生第一高校)

{久保田 郁夫 羽生第一高校}(参加者 89名)

 
象ヶ鼻

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第505回 春日部、浜川戸河畔砂丘(県天然記念物)
             遺跡・文化財
 2017年 1月15日

 刺すような冷たい風に、肩をすくめて足踏みをする。じっとしていると凍えてしまいそうな朝だ。そんな中、この冬一番の寒さという予報にも関わらず、集合場所の八木崎駅前には30人を超える人たちが集まった。地ハイ係として、30分前に着いていれば良いだろうと行ってみると、かなりの方々が既に到着。私が遅すぎたのか、いや、皆さんが早すぎなんだ。改めて、参加者の皆さんの地ハイに対する並々ならぬ意欲を感じた。
 駅前で今日のコース紹介を受ける。その際、春日部高校が作家 北村薫ゆかりの地である事、脳科学者 茂木健一郎の実家が近くにあるなど、ちょっとしたトリビアが出てきた。北村薫ファンである私は、一人で大興奮。
 駅を出発し、まず春日部八幡神社へ向かう。入口には在原業平が読んだ歌のいわれを記した都鳥の碑があり、内容について解説を聞いた。また、3.11東北地方太平洋沖地震の際の春日部の様子、瓦屋根の被害などについても説明を受けた。
 どんと焼きで賑わっている八幡神社を抜け、隣の春日部稲荷神社へ進む。稲荷神社は階段を登った先の高い位置にあるが、足元が砂っぽいことに気づく。神社の建っている高まり全体が風によって川岸にできた砂丘(浜川戸河畔砂丘)であるとの説明に、参加者の方々も驚いた様子だった。
 さらに神社の隣にある八幡公園に移動する。公園の北側には富士山を模した小高い山があった。これは富士塚といい、富士講と関係のあるものらしい。砂丘の高まりを利用し、更に盛り土をしているため、とても高い。ここで、富士塚や、砂丘から出土した遺跡の説明を受け、富士塚の高さが何mあるか測ってみよう!という課題が出される。
 公園内で昼食(寒さのあまり、ご飯が硬い!)を取り、皆さん、思い思いの方法で高さを計測しエントリーシートに記入する。真剣なのは、勉強熱心だからだ。決して賞品がかかっているからではない。結果発表は、大いに盛り上がった。
 公園を出発し、古隅田川沿いを歩く。古隅田川の流れの変化や橋の話を聞きながら古利根川との合流地点を越える。山伏の寺である小渕観音院で、ちょっと破損が残念だがとても威厳のある仁王門を見学し、もう一つの河畔砂丘、小渕河畔砂丘を観察した。こちらも砂丘の下から出てきた遺跡から、砂丘ができた時代を推定できるなどの説明に、皆さん熱心に聞き入っていた。
 ここから駅に向かって歩き、駅でまとめをして解散となった。最低気温−2℃、最高気温5℃。そんな寒さにも負けない、熱意あふれる地ハイだった。  

{川越高校 竹内 幸恵}(参加者 31名 )

八幡公園の富士塚
小渕砂丘

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第506回 秩父堆積盆地の発生〜発展〜消滅の過程をめぐる
               2017年 3月19日〜20日

 日曜地学ハイキングが昨年の7月で500回となり、その記念の地ハイとして1泊2日で秩父盆地の国指定天然記念物の露頭や不整合などを、貸切バスで訪ねました。秩父堆積盆地の発生〜発展〜消滅の過程のすべてをみるため、盆地の西から北、東までをたずねたのです。
 西武秩父駅に集合し、貸切バスに乗り込みます。長尾根丘陵を越えて、盆地の西の犬木の不整合へ。国道沿いの看板のある道を下ると、赤平川には山中地溝帯の白亜紀の砂岩・泥岩がみられます。川を下ると、左岸に10mほどの高さの大きな崖があります。崖の下部には白亜紀の砂岩・泥岩で、その上に新第三紀の礫岩、砂岩と重なっています。境は凸凹し、約1億年の時間差がある不整合です。不整合面の上の礫岩は秩父盆地の地層の始まりをみることができたのです。りっぱな露頭で国指定天然記念物となりましたので、ハンマーでたたいてはいけません。の地層をここから下流へと砂岩がつづき、道路を下り、さらに下流の凝灰質の砂岩を観察しました。午後は盆地の北の石間戸と野巻の不整合へ。石間戸の不整合は長靴でも川をわたるのがたいへんでした。不整合面上には大きな岩があり、断層でずれていてわかりにくいのですが、研究としては重要なのです。 野巻の不整合は道路沿いにありました。宿の梁山泊に向かう途中で、取方の大露頭によって、スランプを観察しました。夜は小幡さんの秩父盆地の地層の学習会でした。時間が足りないほど内容のつまったものでした。
 2日目は阿熊川の下流部で、砂岩と砂岩泥岩互層の観察から始まります。タービダイトによる堆積物で、海が深くなっていったことがわかります。川底を歩いた後、椋神社で休憩をとり、皆野町大淵の荒川の河原へ。ここは昔、地ハイの化石採取で来た場所です。今回は海が一時的に陸になった証拠をみることできるのでした。数〜数10cmの礫に穿孔貝のつくった穴がみられ、海水面から顔を少し出したのでしょう。午後は盆地の東の横瀬川を歩きました。横瀬橋付近では角ばった礫や丸い礫が含まれ、海が浅くなっていった地層をみました。最後に羊山丘陵の上から秩父盆地をながめて、終了となりました。2日間で、「秩父堆積盆地の発生〜発展〜消滅の過程」をみてまわりましたが、いつもの地ハイでは、この一部分をみるだけでしたので、まとめてみるよい機会となったと思います。2日間とも良い天気でした。参加者が少ないのが残念でした。  

{川越女子高校 松岡 喜久次}(参加者 13名)

犬木の不整合

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第507回 新河岸川・舟運跡をあるく   2017年 4月16日

 春、そして晴天(ちょっと強すぎる日差し)、ハイキング日和の朝。集合場所の川越駅に30名の参加者が集まった。こんなに人の多い大きな駅が集合場所になることはめずらしいかもしれない。駅前で今日のコースの紹介を受ける。地学好きにはおなじみの番組『ブラタモリ』でも取りあげられた新河岸川と小江戸川越を、地形や地質の視点で見ていくとのこと。
 早速駅を出発し、線路に沿って最初の目的地浅間神社を目指す。途中、妙善寺というお寺の側を通った。さつまいも地蔵尊というお地蔵様がいて、毎年いも供養なる祭事が行われるらしい。線路沿いから新河岸川方向に曲がるとすぐ浅間神社に到着した。小高い丘の上にあるこの神社は、いくつかある古墳の1つで、母塚とも呼ばれ、次に見る愛宕神社の父塚とセットで大昔から親しまれてきたらしい。階段を上ると頂上に社があり、その裏手には浅間神社らしく、富士山を模して溶岩でつくった火口があった。
 次に大通りを渡り、父塚=愛宕神社へ。社をぐるっと回ると、その横はすぐに急な崖になっていた。ちょうど台地の縁に建っているそうで、階段を使って急な崖(段丘崖)を下りると、次の目的地に到着した。
 仙波河岸公園でまず目についたのは、大きな池だった。下りてきた崖の一番下には丸い石の地層があり、そこからかつて湧き水がたくさん湧いていたらしい。台地と低地がどのように形成されたのか、また湧き水と地形地質の関係について説明を受けた。氷期につくった深い谷を埋めるよう広がった縄文時代の海が、川越あたりまで浸入していたこと、その証拠に当時の海沿いにつくられた貝塚が川越で見られること、また、喜多院の別名(潮音殿)など、皆さん興味深く聞きメモを取っていた。
 火事で焼失した仙波東照宮再建を目的として江戸から資材を運ぶために始まり、後に河川改修で江戸との物資運搬ルートとして発展した新河岸川の舟運の歴史を聞き、川沿いを歩いて行く。途中、線路近くで低地をつくる土を採取して、各自手に取り色や手触りなどを確認した。更に川沿いを進み不老川との合流点で、不老川という名前の由来を聞く。川の途中に木材を浮かべて保管しておく船溜まりの跡地を見ながら更に下流へと進むと、川から少し離れた所にかつての船問屋が残っていた。当時は今より水位が高く、問屋の近くに川岸があったらしい。その歴史と立派な佇まいにため息しつつ、神社の側で昼食タイム。土手に湧き水を発見し、さわって温度を確かめたりなどもしていた。
 午後は高階公民館で日曜地学の会の総会を開催した。多くの方々が、地ハイの思い出やこれからの地ハイに望むことなどを語り、予定時間をややオーバーしてしまうほどの盛り上がりとなった。2017年度最初の地ハイは、のんびりぶらりの地ハイ。たまにはこんな感じも良いですよね。

{所沢西高校 竹内 幸恵}(参加者   名)

<川越 河岸公園>

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第508回 横須賀で関東大震災の
      大規模地滑り崖崩れ跡を見る
   2017年 5月21日

 天候にも恵まれた5月21日、神奈川支部の蟹江康光会員(元横須賀市博物館・ジオ神奈川代表)の案内で標記の地学ハイキングが行われました。ペリーが寄港した街ということで至る所にペリーに関係する史跡があります。また、米軍と自衛隊の基地であるとことから見慣れない雰囲気がこの地にはあります。
 横須賀は軍港ということで、140年前に造られた対岸にあるドライドック(艦船の建造や修理のための施設)の建設と地層の話からはじまりました。現在も利用されているドックはフランス人技師ヴェルニーより50mの山を削り、地層の東京湾側に向かう傾斜に合わせて造られたということです。そのため水は溜まらず進水もスムーズにできる利点があということです。地層の傾斜を利用したのはさすがです。
 つぎに9月1日の大正関東地震の解説のあと地滑り被害者の慰霊塔を見学しました。薄い粘土層の上の地層が総理面に沿って流れた「地滑り」で、崖崩れとは違うといことでした。地滑りと崖崩れは、発生後の状況が似ていて地質がわからないと少しわかりづらいと思いました。驚いたのは被害者は「横須賀市立」高等女学校の生徒であったにも関わらず、当時の新聞報道では「静岡県立」高等女学校とされたことです。慰霊塔の文面の一部は削られ読めなくなっていることにも嫌な気持ちになりました。軍港ということで公にされなかったことのひとつだそうです。駅に団体客下車の記録と学校の記録がなかったということでわかったことで、いろいろな場所で記録を正確に残し、保存することがいかに大切か、と思い知らされました。  また撮影された多くの写真も検閲が入り正確な記録が許されなかったということです。
 その後、列車で潮入から浦賀まで移動し、船(浦賀の渡し)に乗り、対岸へ向かいました。大規模地滑りの跡の全貌を観察し、昼食となりました。
 湾に沿って歩き、地滑りブロックの愛宕山を登り、資料館へ向かいました。途中、歴史の江戸湾警備に携わった会津藩と横須賀の歴史、郷土の偉人の説明を聞きました。廻船問屋の主人が石巻や岐阜など各地の石を集めたという話もありました。
 浦賀郷土資料館で展示の見学と案内の蟹江会員の「横須賀で関東大震災の大規模地滑り崖崩れ跡を見る」のまとめの解説を聞き、解散となりました。
 見学地は、古くからの軍港であり、たくさんの戦後に明らかになったこと、そのことが今の社会の動きと重ねて見ているようでもあり興味ぶかいものでした。
 なお、参考書の「関東大震災−未公開空撮写真」(ジオ神奈川)は蟹江さんに問い合わせるとよいと思います。

{久保田 郁夫 羽生第一高等学校}(参加者  名) 

<慰霊の碑>

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第509回 和光の湧き水を楽しみ守るハイキング
                  2017年 6月18日

 「和光・緑と湧水の会」と日曜地学ハイキングの合同のハイキングはこれまでも数回行われている。湧水の位置は変わるはずもない。だが案内者の高橋夫妻は様々な楽しみ方や情報をコースの中にプラスしてくださる。今回も「はて何が・・・」と楽しみながら参加した。最初の見所歩き所は「いにしえの川越街道」を成増から白子橋まで辿った。白子宿があった地は白子川がけずってできた低地となっている。そしてそこに流れる白子川には今尚コンコンと流水が流れ落ちていた。
  そこから爪先上りの急坂を登り熊野神社の上に出る。ここ熊野神社は江戸時代の文献にすでに「総て境内古木濠鬱として・・・」とある。いかに古くから水がたっぷりとあった証であろう。そこから富澤湧水(白子特別緑地保全地区)を見学。ここの湧水がどの様に使われてきたか説明を受けた後、涯を細かく数カ所見た。細かいジャリ層がしっかりと見えた。扇状地の端となる地ではいたる所に湧水が出る。その水のとぎれることのない豊富にふれた。
  白子コミセンの会議室を使い昼食を取った。その後、2人の案内者の講演を聴いた。その中で最近話題となった、ニホニウム(新しい原子)の説明が出た。ここ和光の理化学研究所の成果である。午後のハイキングは「大阪ふれあいの森」で植物と火山灰・ジャリ層の説明があった。7〜8人位参加していた男子高校生が、必死になって崖の火山灰を採取していた。(TPは確認出来たかな!)ここは北向きで夏涼しく氷河時代の生き残りといわれているカタクリの自生地との話。その後ニホニウムと名を変えた理化学研究所正面前の通りを歩いて」県立和光森林公園へ足を踏み入れた。この公園内で「緑と湧き水の会」が行っているどんぐりの森再生の活動を見落とした。しかし広〜い公園である。出口まで全員で歩き解散となった。 解散と時同じくして傘の出番となった。
 尚今回は地学のパンフレットは無く、代りに和光市自然環境マップを使ってのハイキングとなった。

{地ハイ係 小松 恵}(参加者34名)

<湧水を手にとる>

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第510回 秩父札所の地学めぐり その11
  秩父盆地南縁部の地質と札所をたずねる
  2017年 7月16日 

 第510回の地学ハイキングは、NHK「ブラタモリ」で秩父が取り上げられたその翌日。まさにその秩父を、出演した小幡さんの案内のもとに一日歩いた。
 例年、7月の地ハイは猛烈な暑さとなるだが、この日も例にもれず、秩父盆地には強い陽射しが照りつけている。小幡さんが巡礼姿で現れるのかも…と思っていたのだが、「ブラタモリ」でのあの衣装はNHK所有のものとのことで、手元にはないのだそうだ。
  集合した浦山口駅から荒川を渡り、札所25番の久昌寺へと向かう。その途中では、そこから見える尾田蒔面、羊山面、影森面、大野原面、柳田面等の段丘面を見たり、歩いたりしながら、大昔の荒川の流れと氷河時代の気候変動などについて考えた。その途中にはたくさんの石仏や石碑があって、その石材にも着目して見学した。
  久昌寺で古秩父湾に堆積した角礫岩・角礫質砂岩の露頭や弁天池を見学し、再び浦山口方面へ。来るときには荒川を久那橋で渡ったのだが、帰りは旧久那橋の方をまわった。ここには橋脚の根元部分が残されていて、旧久那橋が薄い角礫岩の上に立っていたことが見て取れる。その後、旧久那橋の橋脚を利用して作られた飛び石を使って荒川の右岸へ渡り、浦山口キャンプ場へ。途中、古秩父湾の堆積層があちこちに顔を出している。浦山口キャンプ場は営業中で、たくさんのテントが並び、浦山川の流れで涼を取っている人たちがいる中を通過させてもらって、浦山口駅東の不動名水へ到着。この湧き水は、影森面を作っている段丘堆積物の中の地下水が、下位にある秩父帯のチャートの上面から流れ出しているとのこと。
  冷たい水で生き返ったような気分になったあとで待っていたのは、この日最大の急登だった。影森面の段丘崖・比高約30mはわずかな距離ではあったけれど、この暑さではなかなかきつい登りだったようだ。登り切ったところにある浦山歴史民俗資料館で昼食。
 昼食後は橋立浄水場や影森用水乃碑などを見ながら、橋立鍾乳洞のある札所28番・石龍山橋立堂へとゆっくり坂道を上がった。休日のためか、驚くような観光客の多さである。橋立堂裏の石灰岩の岩壁を背にして小幡さんの説明が始まった。タモリさんもやってきた現場である。石灰岩の基部にある黒っぽいえぐられた岩石がポイントだ。玄武岩である。玄武岩の火山島の上にサンゴ礁ができて、それがプレートにのって運ばれてきて付加体となって現在に至る、という説明はなんともダイナミックだ。
 鍾乳洞の見学はパスして、所々に秩父線の電車を撮影しようと待ちかまえる“鉄ちゃん”がいる武甲線の廃線跡を歩いて、最後の見学地・札所27番龍河山大淵寺へ。暑さでバテバテの体に大淵寺の延命水が浸みいるように潤っていった。 暑い暑い7月の秩父盆地の地学ハイキングだった。

{本庄高校 栗原 直樹}(参加者31名)

<秩父札所25番久昌寺観音堂>
<秩父札所28番橋立堂>

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