地学団体研究会埼玉支部

日曜地学ハイキングの記録


 第451回〜第460回(2011年9月〜2012年7月)


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第451回 − Road to 500 荒川 その7−
    秩父鉱山の歴史と奥秩父の地質
 2011年9月18日

 9月の地学ハイキングはバスを使って中津川を訪れました。ところが最初からハプニング発生。チャーターした大型バスでは目的地までは入れないということが出発前に判明しました。そこで、さらにマイクロバスをなんとか都合してもらい、こまどり荘(森林科学館)までは大型バスで行って、そこからマイクロバスで目的地までピストン輸送という作戦となりました。
 西武秩父駅から国道140号線を中津川へむけて走ります。道中は案内の小幡さんの話が途切れることなく続きました。秩父帯のこと、四万十帯のこと、白泰断層のこと…といった地質にとどまることなく、秩父のこと、道々のポイントの解説…  国道140号線から中津川への道を分かれ、滝沢ダムを通り過ぎ、やがて細い道となってやっと中津川の集落へ到着です。
 最初に森林科学館を見学したあと、中津川の河床に降りて鉱床を作るもととなったトーナル岩(石英閃緑岩)を観察しました。そして、中津川の右岸を下流へ向かって中津川キャンプ場へ。キャンプ場からは吊り橋を左岸へ渡るのですが、一度に渡れるのは2人まで、との注意書きにより参加者44人が渡りきるのには相当の時間を費やしてしまいました。そこで、ここで2グループに分かれ、一方は平賀源内が金山として掘った「桃の久保」の坑道跡へ、もう一方は源内が住んでいた「源内居」へ向かいました。桃の久保には今もぽっかりと空いた坑口がそのまま残っていました。また、その沢すじでは黄鉄鉱や結晶質石灰岩などを採集することができました。
 ここから中津川ぞいの道路を歩いて森林科学館までもどり、マイクロバスに乗り換えてさらに奥の学習の森へ。ここで昼食だったのですが、ここでまたトラブル発生。送迎のマイクロバスのバックギアが入らなくなってしまい、このバスでは帰れないことになってしまいました。携帯電話も圏外で、電話も使えません。幸い我々が大若沢を見学しているうちに、代わりのマイクロバスがやってきてくれることとなって、事なきを得たのですが、一時は歩いて帰らなくてはならないのかな…などと心配もしました。
 大若沢はすばらしい渓谷でした。埼玉にもこんなすごい渓谷があったのかと思うような渓相で、両脇の壁が急角度で立ち上がっていて、「V字谷」などという言葉では言い表せないような急峻さがありました。大若沢の途中にある「勘兵衛の滝」までこの渓谷をつくるホルンフェスルやチャートを見ながら歩きました。
 最後は再びマイクロバスで移動し、小倉沢の秩父鉱山の跡を見学しました。鉱山跡といっても、鉱口やズリを見るのではなく、かつて繁栄をしていた秩父鉱山の街の見学です。たくさんの社宅、供給所(スーパーマーケット)、銭湯…、廃墟というか、まるで遺跡のような空間でした。中津川と神流川の合流地点で大型バスに乗り換え、渋滞の国道140号線を西武秩父駅に戻ったのは午後5:30過ぎ。消化しきれないほどたくさんの出来事を見たり聞いたりした一日でした。

{児玉高校 栗原}(参加44名)

「源内居」
大若沢遊歩道
秩父鉱山の社宅

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第452回 古代さきたまの自然    2011年10月16日

 「古代さきたまの自然」というテーマで行田市のさきたま古墳群周辺を巡りました。案内は平杜定夫会員です。行田市の忍城といえば、「のぼうの城」で映画化され、その「水攻め」の映像が3.11の「津波」を彷彿させるということで上映が延期なりました。話題の地域です。当日は天気に恵まれ、33人が参加しました。
 博物館前のレストハウスに集合し、石田三成が水攻めで利用した石田堤(の一部)の上を丸山古墳へ向かいます。丸山古墳頂上で指揮した石田に思いをはせながら、旧忍川の河川改修、台地を利用して堤を築いたこと、地形図から読み取った水攻めの様子を聞きます。地学からのアプローチは、多くの参加者にとって新鮮に感じたことだと思います。国宝金錯銘鉄剣の稲荷山古墳を登り、礫かくと粘土かく(埋葬されたところ)を見学し、二子山古墳を通り前玉(さきたま)神社(3.11の被害あり)の浅間塚古墳へ向かいます。浅間塚古墳は最近まで古墳なのか、それとも後世につくられたものなのか議論されたそうです。発掘で堀の存在が明らかになり、古墳であると決着がつきました。その後、レストハウスで昼食となりました。
 午後は、将軍塚古墳の展示館へ入館しました。黒土と赤土が交互に積まれた古墳の壁のはぎ取りを見て、高い古墳をつくる技術力に驚きました。また穿孔貝の穴のあいた房州石を観察しました。運搬に荒川が関係しているそうで、ひとと川の関わりの深さ、埋葬されている人物の権力の大きさを考えました。最後の見学地は遠く、小埼沼(おさきぬま:沼とありますが特に低いわけではありません)まででかけました。東京湾の入江の名残りともいわれています。しかし、平杜さんは、違った見解で解説してくれました。ボーリングデータ等から、遠くに見える小埼沼と小針沼の標高の違い−台地と低地−があるということです。
 配布された解説書は、たくさんの資料と平杜さんの見解、文献の紹介もあり読み応えがありました。なお、この地域は公共交通機関を利用するより、自動車で駐車場に置いてからでかけるのがよいようです。バスの便は「古代蓮」の咲く7月頃がよいということでした。

{久保田郁夫 妻沼高校}(参加者34名)

さきたま
行田 堤

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第453回 紅葉の嵐山渓谷と菅谷館をたずねて
               2011年11月20日

 雨の予報にもかかわらず、好天に恵まれ晩秋のハイキングが楽しめた1日でした。
 まず嵐山渓谷では、素晴らしい紅葉の中で、河原のレキ調査や結晶片岩の路頭を観察し、渓谷の地形から、渓谷形成の地質史を考えてみました。次の鎌形八幡神社では、、木曾義仲の産湯に使われたという湧水を観察し、段丘の構造を知ることができました。菅原館では、段丘面を巧みに利用した城を知ることができました。そして最後に稲荷塚古墳に入って古墳の構造を見ました。
 さて、今回の地学ハイクは嵐山町との共催で、担当課の植木さんの話も聞けました。木曾義仲や畠山重忠や秩父氏との関係、菅原館の堀のしくみ、稲荷塚古墳の発掘の様子などいつもとは違う内容の地学ハイクでした。
 また、小松さんご夫婦の好意によって作られた豚汁を頂きながら昼食を摂りました。

{鶴ヶ島清風高校 奥}(参加者36名)

嵐山渓谷
鎌形神社

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第454回 − Road to 500 荒川 その8−
         川島町の自然 自然堤防を探る
 12月18日

 冬真っ直中とは思えぬ程のぽかぽか陽気に、34名の参加者が集まった。今回のテーマは、自然堤防や旧流路跡を観察し、荒川によってつくられた低地の地形について考えることだ。
 集合場所からバスで移動し、神社で川島町の地形や今日の内容とポイントについて説明を受けた。自然堤防と後背湿地では土地利用が異なることを使って、観察ポイントとなる自然堤防の位置を分かりやすくするため、地形図に色分けをした。しばし無言で色塗り。
 次に、できたばかりの新しい流路跡を観察するために移動する。「ハンドオーガーボーリング」という、巨大な金属ネジのような器具を使い、数人で田んぼのあぜ道にねじ込み、引き抜くとネジの溝に地下の泥砂が付いてくるというしくみ。それを繰り返し、紙の上に採取した深さごとに泥を配置し、観察・柱状図作成を行った。参加者による息のあった共同作業。もちろん、3m分、ハンドオーガーボーリングを回して引き抜くのは、力持ちの男性だ。
 採取したものを観察すると、上の方では粘土の層が続くが、2mを過ぎたあたりから砂が混じるようになり、2.5mになるとシルト質の砂が見られた。この砂がかつて流路をつくっていた河川の砂ということで、全員、砂のサンプルを採取する。
 神社に戻って昼食を撮った後、午前中に採取したサンプルを洗い出し、双眼実体顕微鏡で観察する。すると、中に安山岩の岩片が観察できた。この安山岩は北関東の火山起源であり、この流路跡が利根川によるものだとする証拠となるそうだ。その安山岩を見つけようと、2台の顕微鏡には長蛇の列ができた。
 最後に自然堤防をたどりながら、荒川の現堤防に向かう。荒川低地の自然堤防は形成時期によって、前期・中期・後期に分かれる。堤防の上から現在の荒川を眺め、過去から現在まで、荒川の流路が徐々に西から東へ変化し、その時々に自然堤防が形成され、現在の荒川低地ができたという形成過程を、参加者全員興味深く聞いていた。
 今回の地学ハイキングは「Road to 500 荒川」の第6弾。松本さんが亡くなる直前まで先生方と共に準備されていたものである。毎回、雨が降ることの多い荒川シリーズの中、こんなに良い天気に恵まれたのは、「Road to 500 荒川」をやり遂げたい!という松本さんの強い想いの現れかもしれない。

{原坂}(参加44名)

ハンドオーガーで掘り上げた資料を見る
低地を歩く

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第455回 冬枯れの金勝山ハイキング   2012年1月16日

 冬晴れのもと集合場所の東武竹沢駅には、35名の参加者が集いました。駅前広場で案内者の佐藤和平さんからコースと見どころの説明があり、“2億5千万年前にできた埼玉県最古の金勝山石英閃緑岩”・“ガーネット”といった言葉に自ずと興味も膨らみます。
 午前中は、まず、東武竹沢駅北方の崖や河床で花崗岩・片麻岩・ホルンフェルスなど大小さまざまな礫を含む五反田礫岩層を見学したあと、金勝山東登山口コースに入り前金勝山から金勝山を経て小川げんきプラザへと辿ります。
 よく整備されたハイキングコースでは、金勝山石英閃緑岩が風化してできた真砂やアプライトの岩脈を所々で見ることができます。でも、新鮮な岩石は残念ながらありませんでした。説明によると、昔、金勝山で採石場の計画がありましたが、岩石の風化が激しいため取り止めになったとのことです。お蔭で金勝山の自然が保たれたともいえるのでしょう。
 前金勝山や金勝山の頂では、冬枯れの木々の間から遠く御荷鉾山、雪を被った浅間山、その東に連なる群馬の火山を見て取ることができ、この時期ならではの眺望を楽しめました。
 小川げんきプラザの広場で昼食をとり、午後はそこから100m程西に行った通称ゴリラ山の露頭を観察しました。ここでは、比較的新鮮な金勝山石英閃緑岩やこの石英閃緑岩を貫くぺグマタイ岩脈、その中に含まれるガーネットを見ることができます。皆さん幅数m程の岩脈の露頭に顔を近づけて熱心に観察したり、ルーペで1mm程の赤いガーネットの粒を発見しては歓声をあげておりました。
 最後の地点は、金勝山をくだり八高線沿いの車道をしばらく歩いた公仁会小川町病院脇の兜川の河床です。1600万年前の小川町層と金勝山石英閃緑岩が不整合で接している露頭を観察しました。
 天気にも恵まれ、冬ならではの景色を楽しむと共に、年代や種類の異なる様々な岩石や地層に触れることができた一日となりました。

{力田正一}(参加者35名)

金勝山への登り
金勝山石英閃緑岩の露頭

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第456回 早春の秩父ようばけをたずねて  2012年3月18日

 曇り空の下、秩父盆地の泉田バス停に44名の参加者が集まりました。夕方から雨の予報で、午後2時頃にぱらぱらと雨になりましたが、地ハイには影響のない一日でした。
 ようばけ周辺の地ハイでは、海底地滑りの跡(スランプ褶曲)、底痕、ようばけの地層、化石採集などがいつものコースですが、今回は小鹿野用水、森黄玄斎の墓、大徳院、奈倉館跡などもたずねました。森黄玄斎は江戸時代(天保ころ)の芸術家であり、大徳院には小鹿野町指定天然記念物の一本杉などがありました。
 小鹿野町の水田や住宅のあるところ(段丘面)より急坂をくだり、赤平川の河床まで下りたのですが、この急坂は河川による侵食の結果であることが体験できました。そして、赤平川に流れ込む河川(用水など)は、滝をつくっているのです。
 また、「ようばけ」は小鹿野町指定天然記念物ですので、対岸から見学してから化石を採集のできるところに移動しました。そこは、ようばけの地層の延長する場所で、化石がみつかる可能性のあるところです。岩質は泥質の砂岩からなります。化石さがしが始まり、しばらくしてカニのはさみがみつかると、岩をたたく勢いが増したように感じました。今回はソデガイ、キララガイ、ホタテガイなど、多くの二枚貝、イチョウガニの甲羅、エンコウガニの甲羅、イチョウガニのはさみ、ワニザメ、アオザメの歯などが見つかりました。その場で、まとめを行い解散し、バス停に向かいました。
 案内の小幡さんの説明は、文化財、天然記念物の話題から、秩父盆地の形成や海の進入など幅広い話題があり、勉強になった一日でした。

{大宮南高校 松岡}(参加者44名)

はさみばけ(左)とようばけ(右)を望む
小鹿野町層群の砂岩泥岩互層と底痕

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第457回 埼玉県北東部の地形・地質と地盤の液状化
               2012年4月15日

 想定外の桜の花の舞う中、南栗橋駅から権現堂川へ向かう。3月の下見では、桜は散っていると思っていたのに、菜の花、すいせんなども咲く中、天気も良くハイキング日和であった。権現堂川は流れがおそく、川幅が広く、調整池の役目をしていた。これは調整池とするために、砂を取り除くことが必要になり、この砂が住宅開発のための埋め立て用に使われたのであった。
 その後、液状化の被害のある住宅地にゆくと、そこはごくありふれたところであった。その中の一画では、家が傾き、駐車場がゆがんでいる。転居しており、これから修理をするのであろうか。修理中の家、修理が終わった家もある。その中のある家では庭に深さ2mほどのマンホールをつくり、排水をしていることで、被害が少なかった家の見学をする。その家のおばあさんからの説明をうけた。この付近は地下水位が高く、湿気が高いために設置したのが、今回の地震の被害が少なくてすんだとのことであった。なお、この家の見学ができたのは、案内者の方違さんの熱意によるものであった。今回の参加者の中には、地元の方も数名いた。運動公園は液状化による噴砂ですごいことになっていたという話である。その砂は、公園脇に小さな山をつくってあった。その砂を土壌サンプル管に入れ、水を加えて振ることで、液状化の起こる理由を確かめた。
 午後からは、栗橋コミュニテーセンターにて、液状化に関する学習会が行われた。1時間程度の説明があり、質疑応答などが続いた。ホールは天井が高く、明るかるい会場であったために、映像がみにくくなってしまったのが残念であった。

{大宮南高校 松岡}(参加者44名)

液状化被害のある住宅地を観察
液状化の実験

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第458回 − Road to 500 荒川 その9−
 大むかしの川さがし−峠の河原の石はなに?
 2012年5月13日

 5月13日は「大むかしの川さがし−峠の河原の石はなに?」という荒川の流路の変遷を考える日曜の地学でした。案内ハガキで東上線の時刻に誤りがあって集合が遅れました。その間、列車到着までをトイレを済ませたり、名簿記入、班分けに利用しました。参加者は31名で、多数の高校生の参加が目立ちました。この日は天候に恵まれた上、「寄居北条まつり」もあり、寄居町はにぎわっていました。  案内は、町田明夫会員と角田史雄会員です。予定の堀口万吉会員は、都合で欠席となりました。 参加者がそろったところで、最初の観察地点の「玉淀河原」へ向かいました。歩きながら道路が荒川に向かって、ゆるく傾斜しているのがわかります。玉淀は昭和10年に県指定の名勝地に指定された場所です。河原に下りると対岸の絶壁の上に鉢形城址があり、上手に自然を利用していることに改めて感心させられました。河原では「荒川の石」をテキストにして班ごとにレキを調べました。奥会員の勤める鶴ヶ島清風高校の生徒の若い参加があり、いつもと感じが違いました。河原での観察が終わると、現在の河原からひとつ上の段丘面までの高さを測りながら上りました。
 その後、宗像神社の湧水の池など見ながら「象ヶ鼻」まで荒川に沿って歩きました。河原に下りることは出来ませんでしたが、ほぼ東西に流れていた荒川がなぜ南北に流れの向きを変えるのか。地形図を見ながら、象ヶ鼻−朝日根断層の話を交えて説明がありました。話は地震、立川断層の話までおよびました。3.11以降、地震が多く地震と断層・地形の変化、防災(減災)など自然災害に対する参加者の関心の高さを感じました。昼食は善導寺でとりました。野外を歩く者にとってトイレと水のある、最近のお寺は助かります。昼食後、少林寺の崖で”マサ”になったカコウ岩のくさりレキを探しました。らしきものはありますが、なかなか見つかりません。そして、カコウ岩を探しながら円良田湖までの林道を歩きました。河原で確認した、カコウ岩があれば、荒川のかつての流路を推定できるというわけです。みんなの眼で確認して、過去の荒川の流路を推定できる、たのしい「埼玉日曜の地学」でした。

{久保田郁夫 妻沼高校}(参加者31名)

河原の石ころ調べ
角田会員の解説

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第459回 三浦半島の観音崎へ行こう   2012年6月3日

 一日雨との天気予報とは打ってかわり、曇り時々晴れ、一時雨でした。
 京浜急行の馬堀海岸駅に集合し、防衛大学方向に歩く。道沿いに新第三紀の池子層のシルト岩と第四紀の横須賀層の砂岩の不整合露頭を観察する。砂岩には貝化石は多く含まれ、壊れた貝もみられる。また、不整合面下のシルト岩には穿孔貝による穴が見られる。次に横須賀層に砂岩に挟まれる礫岩とさらに上位のローム層を観察する。礫岩の礫種は砂岩が多く、チャートがあり、火山系の礫がないので関東山地の山から供給されたとの説明があった。安山岩などが見つかったので、丹沢の石も混ざっていると思われる。ローム層にはオレンジ色の軽石(小原台)がみられ、採取する。
 その後、バスで観音崎自然博物館に移動し、昼食となる。海岸を見ながら食べるのは、神奈川での地ハイでしか味わえない。
 午後は観音崎自然博物館の見学から始める。ミヤコタナゴの水槽に圧倒された。展示物には触れないようにとの注意書きがあるものの、触ることはできるように?ガラスなどに覆われていないのがよい。穿孔貝、魚、植物、虫など・・・。一番人気があったのは、ふれあいコーナー。タコ、ナマコ、ウミウシ、ヒトデ、・・。触れた感覚が楽しかった。そして、観音崎公園である海岸沿いの遊歩道を歩く。手掘りのトンネルの中の露頭が圧巻であった。午後2時頃になり、雨が落ちてきた。ビジターセンターに入ると、強雨となり、ここでまとめをして解散となる。

{大宮南高校 松岡}(参加者32名)

長田会員の解説
不整合面に見られる穿孔貝の穿孔痕

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第460回 堂平クリッペの謎をさぐる   2012年7月15日

 梅雨明け前の高温多湿な不快指数推定100%の中、7月の地ハイは東秩父村の笠山の北面の林道を御荷鉾緑色岩と秩父帯の砂岩・泥岩やチャートや珪質凝灰岩との関係を考えながら歩きました。
 案内のハガキによれば、標高差310m、行程約8kmとありましたが、まだ暑さに慣れていない体にはそれ以上の厳しいコースに感じられたかもしれません。
 この地域にある堂平山の山頂付近にはチャートを主体とする秩父帯の岩石、その下には御荷鉾緑色岩があって、その成因については藤本治義さん、井尻正二さん、安戸研究グループ、小川町史の調査、関東山地団体研究グループなどがそれぞれの考え方をしている、との説明を受けてから、バスで現地へ向かいました。
 林道では道脇の露頭を、ここは緑色岩、ここは泥岩、ここは… などと観察しながら、歩いて行きます。林道が緑色岩とチャートや泥岩や珪質凝灰岩などの境界を縫うように続いているため、岩相は露頭によってしばしば違ったものになりました。そして、その境界部はなかなか見えないのですが、昼食後、沢に入り1箇所、さらに林道ぞいの露頭でも1箇所で境界を見ることができました。しかし、その境界が見えても、それが断層なのか、整合で重なっているのか、なかなか判断が難しいものでした。
 赤木の集落からは館川沿いに長くて暑いアスファルト道を切り通しのバス停へ向かって汗だくで歩きました。その途中では、案内の松岡さんが事前に採って隠しておいた?放散虫の含まれる岩石を分け合ってお土産にしました。うまく放散虫が出てくれるでしょうか。

{児玉高校 栗原}(参加者34名)

パンフを使った松岡会員の解説

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