地学団体研究会埼玉支部 日曜地学ハイキングの記録 第351回〜第360回(2001年8月〜2002年7月) |
第352回 秋の長瀞をたずねて 2001年 10月21日
第353回 深秋の比企丘陵をたずねて 2001年11月11日
第354回 初冬の岩殿丘陵をたずねて 12月16日
第355回 日だまりの寄居に埼玉の岩石園をたずねて
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1月としては暖かな日和に恵まれた今回の地ハイは、寄居町を流れる荒川とその周辺を歩きました。「埼玉の岩石園」とタイトルにあるように、このコースでは、種類や年代の異なる岩石・地層をたくさん観察することが出来ました。 まず、寄居駅にて案内者の楡井さん・久保田さんからコースの概要説明を受け、玉淀川原に向います。荒川にかかる正喜橋から上流域の川原には、火成岩の仲間で寄居酸性岩類と呼ばれる岩石や堆積岩の仲間の砂岩が分布しています。それも断層の影響によるもなのでしょう、岩石や地層には細かい割れ目が入っていて、よく観察しないと火成岩なのか堆積岩なのか見分けがつかない感じです。ここでは今回もまた、3月の地質調査体験ハイクに向けて、クリノメータの使い方を実習しました。さらに、地形の説明では、元埼玉大学の堀口先生にも加わっていただき、数十年前から現在に至る玉淀川原の変遷や河川地形などの話をうかがいました。 そのあと、正喜橋を南に渡り、鉢形城南方の深沢川に入ります。沢を右に左にわたりながら地質調査といった雰囲気で、寄居層と呼ばれる白亜紀末〜暁新世初期の地層や断層破砕帯などを観察しました。 鉢形城跡での昼食後は、再び荒川に戻り正喜橋から下流域での観察です。この付近は、これまでと異なり、変成岩の仲間で御荷鉾緑色岩と呼ばれる岩石が見られました。全体に、緑色をおびたこの地層は、長瀞の岩畳で見られる岩石と同じ仲間ですが、変成度がやや低いためにペラペラ剥がれる特徴は弱いようです。その岩盤の上には、荒川の流れによって形作られたカメ穴(ポットホール)や、岸壁の石灰岩質片岩には、スイッチョの穴と呼ばれる鍾乳洞も観察することができました。 観察終了後は、河原で小松さんのご家族が総出で作っていただいた甘酒をいただき、冷えきった体を温めて帰路につくことができました。 (参加49名) |
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今回は第6回目の「体験ハイク」である。調査地域への交通、宿への移動等の都合で、総勢20名限定で計画された。内訳は地ハイ係が4名、案内者が4名、一般の参加者は12名(うち1名欠席)である。係1・案内者1で4名の参加者の説明ということになる。 また、2日目もあわただしく調査をするのではなく、午前中にじっくり各班でルートマップをまとめ、鍵層、地質境界線等の整理を行うという日程で行われた。調査ルートは、両神村上野沢流域〜荒川村町分地、すなわち秩父層群と第三系の境界地域の不整合または境界断層を終点に4本組まれた。 10:20am三峰駅集合。三峰駅西方の白川橋に場所を移動し、あいさつ、班分け、配車をし、各班ごとに出発。16:30〜17:00をめどに宿にもどるという日程であった。どのルートも全般的にはシルト岩主体で、この中に砂岩や凝灰岩が挟まり、中古生界の境界あたりで露頭欠如をはさみ、粘板岩、石灰岩が露出するという内容であった。 18:30pm夕食(食べきれない量のおかずに、手打ちそば、ご飯。全部食べられた人はいたのか?)。帰りが遅れた(まじめに調査をやった?)班は入浴。19:30から各班ごとに大まかなまとめを1時間程度やり、コンパ。 飯をたらふく食べ、今日歩いたルートの地質がなんとなく理解でき、酒が入り、「年齢がどうで、何を現在やっていて、このようないきさつで地ハイ参加となった」という自己紹介が進むにつれて和気あいあいとなる。中には2:00am頃まで飲んでいた輩もいたようだが・・・。 翌日は7:30朝食。8:30〜各班でまとめ。ルートマップをもとに断面図、柱状図、真の傾斜と見かけの傾斜の関係等々、案内者が「各班からの報告」のレクチャーも含めた総まとめを行う。模造紙にルートマップを描き、発表の準備を含め2時間程度して、いよいよ「各班からの報告」である。必要があれば、サンプルを示し、他のルートと対比を行う。 最後に全体まとめである。「各班のまとめ」の時に、係でまとめておいた地質図をもとに、秩父盆地団研の岡野さんが総まとめを行い終了。*境界断層確認1ヶ所。不整合面は未確認。その他は、中古生界の出現による推定断層。せっかくだから、ということで模造紙のルートマップの前で記念撮影。 昼食は、これまたボリューウム満点のカレーライスであった。お代わりする者はいなかったようである。荷物をまとめ、玄関でさらに記念撮影。前日の配車で西武秩父駅まで送り解散となった。 多くの地域を見学することも大切だが、2日目の午前中に前日の調査を(走行・傾斜、岩相、岩質、断層、節理等)じっくりまとめ、それに基づいた地質図関連作業をやることも、「こうやって地質図ができるのか、これらがまとまって埼玉の地質や日本の地質が組み立てられるのかがわかり、ためになった」という感想も聞かれた。 (参加19名) |
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4月の地ハイは雨の中の地ハイとなってしまいました。集合場所は、まだ地図にも載っていない、出来たばかりという「月の輪駅」で、駅前にはまだなにもなく、造成中といった場所もあちこちに眺めることができました。 集合時間前から降りはじめていた雨は本格的な降りとなり、はたして参加者はいるのかなと思っていたところ、熱心な人達がたくさん集まってくれました。 観察は駅前の造成中のロームから始まりました。雑木林を切り開いている真っ最中といったところがいたる所に見られ、下末吉期のロームと考えられているロームや粘土を観察しました。 さらに、雨の降りしきる中、歴史資料館まで歩き、資料館を見学したあと、資料館の前に広がる菅谷館跡に下りて行きました。ここでは人工的に作られた段差と、自然に作られた段丘が組み合わされて、下末吉期の段丘面から低位段丘へと下りていく数段の段丘面を観察することができました。どんどん下っていくと、最後は都幾川の現在の河床にまで下りてしまいます。都幾川の河原は雨に濡れていて、レキの色が鮮やかで、雨に洗われた美しい色を見ることが出来ました。また、レキのインブリケーションも観察することができました。 最後に、都幾川にそって少し上流へ歩き、段丘を作っているレキを観察してこの日の野外での観察は終了となりました。雨は相変わらず降り続いています。 午後は、今年度最初の地ハイということで、「日曜地学の会」総会が行われ、前年度の活動の報告と今年度の計画などについて話し合われました。 (参加25名) |
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赤平川といえば、ヨーバケや郷平橋下の「貝化石」、前原の「不整合」、信濃石の「スランプ構造」が定番である。しかし、今回は「一般地質学講座」的な内容の地ハイであった。 皆野駅近くのバス停からバスで対岸にわたり、野巻バス停で下車。案内者の紹介とパンフ配布の前に、まずは県道の脇で(1)地形:河岸段丘、河川地形等の説明を聞き、赤平川の河原へ移動する。挨拶の後、今日のコースの概要を聞き、さっそく砂岩、シルト岩の露頭に向かう。(2)地質構造:層理、走向・傾斜、断層、ラミナ、ノジュール、鍵層等の説明を聞き、各自の観察にかかる。今回のパンフは「書き込み式」になっており、さながら“地層学実習”である。案内者の千代田さんは、走向・傾斜板は当然のこと、自作の粒度表、岩石・鉱物・化石にまつわる様々な写真を豊富に示し、“地質説明グッズ”の達人である。 下流へ歩きながら(3)層序:富田層と子の神層の関係、層相・岩相等々の説明。さらに(4)岩石・鉱物:礫岩、砂岩、シルト岩、凝灰岩、海緑石、石英、方解石。(5)化石:二枚貝、巻き貝、ボーリングシェル等々細かい説明がなされた。 郷平橋下での説明が終了する頃には雷雨となり、3時半過ぎに解散となった。早足で皆野駅に着いた頃には、地面から水しぶきが上がる本降りとなっていた。 案内者、参加者、係の皆様、お疲れさまでした。 {富士見高校 松井}(参加33名) |
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地ハイ案内者できついコースを設定するのは誰でしょう?おそらくHさんとOさんでしょう。今回の地ハイはそのOさんの案内です。しかも今にも雨が降り出しそうなお天気・・・それでも集合時間になるといつものように参加者が集まってきました・・・が!今回は毛色が違う参加者がちらほら。何でもON高校のK先生から参加を強制された女子高生数名、しかも参加を命令したK先生が来ないと知った彼女たちは「マジ!信じられない!!」とK先生への不信感をあらわにしています。 今回のコースは埼玉県最古のお寺やそれにまつわる伝説やいわれを見て歩くもので町の職員の方も案内者に加わっていただきました。ちなみに慈光七石とは、冠岩・琵琶石・牛石・冥官岩・稚児岩・男鹿岩・女鹿岩の七つです。慈光寺は歴史を感じさせる立派な寺で、参加者の中には文化財収納展示施設を見学された方もいました。また、寺の門を入ったところにある多羅葉樹は1000年も前に植えられたモノだそうです。また、この葉面に傷をつけると黒色の跡が残り、“葉書”と言う言葉のもとになった、と言う説もあるそうです。 ただでさえ厳しい藪こぎコースに雨まで加わって女子高生達の「マジ無理!」「ありえねぇ!」なんて最新の若者言葉が飛び交う楽しい地ハイでした(?)。 {川口清陵高校 醍醐}(参加43名) |
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梅雨明け、薄く雲のかかった夏空を仰いで暑い一日が始まりました。パンフレットは地ハイ史上初めてといえる、絵巻物で案内者の松本さんの意気込みが伝わってきます。川に沿ったイラストがとてもわかりやすく、ここまで詳しく研究できるものかと地道な調査研究に頭が下がります。 東川は狭山丘陵を水源とし、台地を刻んで柳瀬川に合流する小河川です。出発点の県立芸術総合高校は狭山丘陵を切り崩して建てられています。この付近からは日向遺跡が出土し、太古から湧き水を利用した稲作が行われてきました。しかし昭和初期に村山貯水池ができてからは水量が減り、稲作をあきらめ、今では源流の谷を埋め立てて畑にしてしまいました。地元の新井さんの話では昔はサワガニやウナギがいて、薬草が目医者さんの薦めで盛んに栽培されたそうです。川は側溝のようなところから現れ、少しでしたが水田も残っていました。道端には庚申塔や馬頭観音が見られ、村境を示す道標となっています。狭山湖橋からはコンクリートが貼り付けられておらず、昔ながらの川を見ながら歩けます。しばらく行くと北野総合運動場です。ここは水田だったところを椿峰ニュータウンの造成で出た土砂で埋め立てて作られました。宮後橋の手前にさしかかると木陰があり、そこでローム層の露頭を観察しました。ロームの下には灰色の粘土層が断続的にあり、生物の巣穴らしい丸い穴も確認できます。 宮後橋からは住宅地になり、コンクリートの護岸となりますが、右岸にローム層が露出しているところがあります。川底にはレキがあり、ローム層の下はレキ層になっていることが分かります。高圧線の下まで来ると、防災調整池の工事が大規模に進められており、池に沿うように東川の流路は完全に規制されます。この池は下流の新河岸川の洪水対策に作られたもので、内壁にはローム層と下に厚いレキ層が確認できました。ここもすぐコンクリートで固められることでしょう。 パンフレットは柳瀬川の合流地点まで作られているのですが、今回は暑さもあり、ここまでとしました。 {大宮西高校 小島}(参加54名) |
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