地学団体研究会埼玉支部 日曜地学ハイキングの記録 第341回〜第350回(2000年8月〜2001年7月) |
第342回 紅葉に色づきはじめた二子山を登る
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薄曇りのあやしい空模様の中、西武秩父駅にあやしい出で立ちの連中が集合した。 小鹿野町役場でいったんバスを乗り換え、「坂本バス停」の到着は10時をまわっていた。この日は町民マラソンの当日で、役場周辺は混雑であった。 仁平沢に沿い登山開始。途中、山中地溝帯の礫岩・砂岩・泥岩を横目でにらみ急坂を進む。私はといえば、前日の社会勉強がたたり不調の極みで、ハンマーはいまだザックの中である。「松井さんからの電話は、アルコール臭がする」などと、ののしられながら苦渋の一歩一歩が脳天を揺さぶる。股峠の手前あたりから、石灰岩の転石に含まれる方解石を採取。大きいものは5mm以上である。峠につく頃にはすっぽり雲の中のとなり、寒気の中昼食をとる。フズリナ・方解石採取班と西岳登頂班・東岳登頂班の3班に分かれ、霧雨のなか登山開始。係の私が股峠で待機だ。二子山石灰岩体は秩父中・古生層(蛇木層)中のレンズである。登山道はしっとりと水を吸い、スッテンコロリンが続出。待機所の股峠には、登頂開始から30分以内に3人が舞い戻る。 帰りのバスの時間もあり、急ぎ下山。なおも方解石採取に執念を燃やすものもあったが、坂本に戻る頃には雲を脱出した。振り返ると山頂付近の雲も取れ、股峠から西岳にかけての稜線がくっきりと浮かび上がり、紅葉も映えていた。 (参加54名) |
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12月に行われた企画に関するアンケートの中で一位に上がっていたのが丹沢山地です。案内者の角田さんは現在箱根発生期団研の一員で、団体研究や個人研究を通してこの地域をくまなく歩かれた研究者です。 この地域を面白くさせるのは、1970年頃からいわれ始めた伊豆半島が本州に衝突したとする説です。伊豆半島は別の地域から来た地塊で、丹沢山地に衝突して沈み込むという説です。衝突によってできた盛り上がりが丹沢山地で、境界面にあたるのが有名な「神縄(かんなわ)断層」だというのです。果たして現地の露頭はそれを物語るのか。この広大なテーマを一泊の巡検で分かるはずがありません。そこで、角田さんのご厚意で事前に三回の学習会を開いてきました。 一回目は神縄断層がプレート境界に祭り上げられてきた経緯を説明していただきました。研究者の捉え方によって、その説が一人歩きしていく様子がわかりました。二回目は伊豆半島が衝突したという見解の根拠になっている、伊豆半島が丹沢とは違う異地性の地塊かどうかについて野外観察のポイントを交えてお話しされました。三回目は「プレート付加説」のライバルである「サージ説」にまで言及されました。 JR御殿場線の駿河小山駅に集合し、マイクロバスと車二台で、箱根の堂ヶ島温泉に向かいました。バスの中で班分けし、課題に対して班で取り組むことになりました。堂ヶ島温泉では箱根火山の最終的段階で発生した土石流堆積物の安山岩のレキを見て、目を慣らしました。早川に下り、箱根火山の基盤になる湯ヶ島層群の砂泥互層とそれを覆う早川凝灰角礫岩層の不整合を観察しました。走向傾斜を測った後、この二つの地層がどうやって堆積したか宿題がだされました。 夜はこの問題について班で議論し、班長さんが発表です。なかなかいい解答も出されましたが、地史を組み立てるとき、素人はどうしても過去から考え始める傾向があると指摘されました。現在あるものが事実なんだから、そこから遡るのが正当だと誰もが認識でき、目から鱗の授業?でした。 翌日は足柄平野から箱根火山と丹沢山地・富士山を見渡してから、神縄断層を切る小菅沢断層を見学したかった‥‥。ところがどっこい、断層はコンクリートで巻かれて見えません。神縄断層は地形から眺めて良しとしました。次に、丹沢山地に見られる1400〜1200万年前にできた最も新しい結晶片岩の路頭を観察しました。 その後、日向で足柄平野が深い海になったと時代の泥岩と、その時に上がってきた買入岩を見ました。火山岩にもかかわらず、安山岩の円礫を含んだ礫岩に見えます。地下から上がってくるときにマグマに取り込まれた周りの岩石が、イモモミ状態になって丸くなったものだそうです。最後に松田山から足柄平野を眺めながら巡検のまとめをしました。 (参加33名) |
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一昨年12月、地ハイ係として活躍された阿比留さんがご病気でお亡くなりになりました。三回忌にあたる今回は阿比留さんを偲び、以前阿比留さんが案内したこの場所を訪ねてみようと企画しました。 集合場所の正丸駅では、地ハイに先立ち阿比留さんの人柄や日曜地学の会員のご協力でできた「阿比留さんの追悼文集」も紹介されました。 午前の部は、マンガンを採掘していた大蔵鉱山跡での鉱物採集です。昭和20年代初めまで採掘していたという鉱山跡は、柵が施されたいくつかの坑口があり、当時の様子がうかがえます。ズリ跡でのマンガン鉱物採集では、二酸化マンガンやハウスマン鉱・菱マンガン鉱などといったものが採れるとのことですが、とても識別するのが難しい感じがします。それでも皆さん案内者の丹下さんに見分け方を聞きながら、熱心に採集をされていました。また、小松さんのはからいで栃木県で採集した美しいマンガン鉱物が、阿比留さんの思い出にと参加者の方々に配られました。 午後は、小高山から正丸峠への稜線をたどり、再び大蔵沢に戻るコースです。付近には、チャート、砂岩・粘板岩・緑色岩・石灰岩など、秩父層群(1.5億〜3億年前の海に積もった地層)のほとんどの岩石を見ることができました。特に、最も広く分布する赤色チャートは、積み重なった板が、複雑に折れ曲っているように見えます。川原の礫調査でおなじみの岩石が、露頭ではどのように見えるかが分かりました。 初冬の木漏れ日のなか、“そういえばあの時は、雪だったな‥‥。”などと、阿比留さんの思い出とともに歩む地ハイとなりました。 (参加42名) |
この日は前日に降った大雪で、道路には雪が残った地ハイとなりました。 予定では、グループに分かれて東浦和周辺を歩いて坂道の調査をするはずだったのですが、雪のため交通機関の乱れもあり、参加人数もそれほど多くなかったため、案内の小松さんを先頭にして、全員で東浦和駅の北西のあたりを歩くことにしました。 東浦和駅から近くの第八公園へ移動して、地図で歩くコースを全員で確認してからスタートしました。このあたりは土地の起伏がよくわかり、道路を歩きながら地図で現在位置を確認し、坂道を地図に記入しながら歩きます。グループに分かれて、たくさんのルートで坂道の地図を作れば詳しい地形が浮かび上がってくるはずだったのですが、1つのルートを歩いただけでしたので、そこまではできませんでした。しかし、台地の高い場所と、台地が削られてつくられた谷の地形が明瞭にわかり、2万年前の氷河時代の出来事を想像することができました。また、古くからある道路が台地にそってあることなど、人間の生活と地形の関係も興味深いものがありました。 ルートを一周して出発点だった第八公園まで戻り、あらためて公園を眺めてみると、公園自体が台地のへりにあたるところに位置していることに気づかされます。 この公園で、パンフレットの地形図と自分たちで作った坂道地図を見比べてみて、なるほどと思えるような一致をいくつも見つけることができました。 第八公園から見沼通船堀公園へ移動すると、小松さんの手作りのトン汁が雪景色の中で制作中でいい匂いが漂っていました。昼食を前に、通船堀遺構と通船堀の通船権を持っていた鈴木家を見学し、通船堀ぞいの八丁堤を歩いて昔をしのびました。 トン汁で体も暖まり、昼食後は大宮台地を作る地層を見学しました。最初に見学した大牧の露頭は、北向きということで雪と氷で、さらに上に民家があって、みんなで削るわけにはいかないため、手を出さず「見学」だけにとどめました。ここでは、ロームの中に箱根から飛んできたという東京軽石(TP)が見られました。ローム自体は武蔵野ローム層で、クラック帯も観察することができました。露頭の下部には、ロームとはまったく顔つきの違う粘土やシルトを主体とした大宮層と呼ばれる地層が観察できました。 2番目の露頭は附島の崖で、しばらくすると道路になってしまうかもしれないという場所です。ここではみんなで露頭を削って、ロームの感触も確認することができました。上部がローム層で、ここでも東京軽石(TP)が見られましたが、最初の露頭でみられたクラック帯はありませんでした。露頭の下部はやはり粘土やシルトの地層で、数cmの厚さで「硬砂」とよばれる砂層も見ることができました。 最後の露頭で、一日のまとめです。厚いローム層が5万年という長い年月をかけてつくられたということから、「ロームは一日にしてならず」という案内者の名言?で終わることができました。 (参加28名) |
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自分の住む町の地下を調べよう!「○○さんち」シリーズの第2騨、1月の大宮台地に続いて、県西部の武蔵野台地に足を向けます。満開の梅を堪能しながらのハイキングとなりました。 東所沢駅は台地を掘り下げた溝の中を走る線路の途中にあります。駅から南に向かい、眼下に柳瀬川をのぞむ所沢台で清瀬市の方角を眺望しました。手前側は川の攻撃斜面で、十mを超える絶壁です。向こう側は河岸段丘と呼ばれる台地特有の地形で、緩やかに高くなっています。これは川に対する土地の隆起が断続的起こったことを物語ります。大宮台地ではこのような地形見られませんでした。 ここ武蔵野台地は古い多摩川の作った扇状地で、礫層でできており、それを関東ローム層の赤土がおおっています。昔から“所沢には嫁にやるな”といい、台地での水汲みの大変さを表す諺だということでした。 お茶の木に囲まれた人参畑をぬけ、ローム層の崖を下ると、真言宗の名刹東福寺に着きます。墓地のある崖を下ると円礫が転がっていおり、扇状地の堆積物が顔を出します。本堂裏手の崖からは湧水がわき出ていました。ここで柳瀬川に清流を取り戻す活動される酒屋のご主人から話を聞きました。昔は水量が豊富で水田にも利用していたということです。ご主人の紹介で、民家の湧水井戸も幾つか見学するこいとができました。 次の金山調整池・緑地公園は柳瀬川の蛇行を利用した遊水池です。なぜ湧水が減って、川が増水しやすくなるのか?宅地化やコンクリート護岸による河川の直線化が洪水を起きやすくすることを知りました。 次は、崖に戻ってローム層の観察です。詳しく見ていくと上部の武蔵野ローム層の中には東京軽石TPの鍵層があり、大宮台地に比べて厚い地層になっています。その下の下末吉ローム層にもクリヨーカン軽石、三色アイス軽石など、なんだかおいしそうな鍵層が並びます。大宮台地ではこの部分は大官層と呼ばれる粘土状のシルト質砂層になっていました。 最後に、出発点の崖に戻って柳瀬川見下ろしながらまとめをしました。パンフレットの表紙に描かれた「となりのトトロ」の一シーンを見ながら、「サツキちゃん達の家はどの段丘面上にありますか。」と、和やかな雰囲気で春の一日を振り返りました。 (参加38名) |
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“見沼たんぼで潮干狩り(?)”のタイトルに誘われてか、前回(1993年4月実施)同様、今回もまた子供達や初めての方など大勢参加されました。 今回は、見沼たんぼ「芝川第一調整池」。現在、調整池工事のため地面が深く削られ地層が露出している所です。この一帯は、約6000年前の気候変動によって海面が上昇し、東京湾が関東平野の奥まで入り込んだ頃にできた地層で、その中には当時の貝や生活した痕跡が化石となって見られます。 参加者の方々は、案内者の岡本さんの説明もそこそこに、調整池の崖にへばりついて潮干狩りです。小型のテリザクラ・オチバガイ・ヤマトシジミといった貝化石がたくさん採れました。貝化石から、当時の環境を推定してみる今の東京湾よりはずいぶん暖かかく、河口に近い浅い海から潮間帯のものであることがわかりました。 また、この縄文時代に匹敵する工事現場の地面から現在の地面に続く崖をつぶさに観察してみると、昔の芝川によって流されてきた土砂やその方向、含まれる植物化石などから環境の移り変わりも想像できました。 午後は、農業者トレーニングセンターに場所を移し、見沼の歴史と自然を研究されている宮田正治さん(小説『水いかり』の筆者)に、見沼にまつわる民話“見沼の竜”を語っていただきました。縄文時代よりは、ずっと新しい時代の見沼の様子、人の暮らしを垣間見る思いがしました。 その後、4月恒例の「日曜地学の会総会」が行われ、昨年度の地ハイ報告・決算報告・今年度の企画等について報告されました。とくに地ハイ350回を迎える節目の年、記念巡検や記念品の企画など、日曜地学の会全体で盛り上げていこうとの呼びかけがなされました。 (参加63名) |
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5月の地ハイは初夏というにふさわしい真夏の太陽の下での地ハイとなりました。化石がとれるとあってか、集合場所の秩父線・皆野駅にはたくさんの人たちが集まって、子供たちの姿もとりわけ多かったようです。 皆野駅を案内の小幡先生を先頭に出発して、最初に立ち止まったのは、赤平川にかかる郷平橋の上でした。赤平川と荒川の合流地点のこの場所は昔から化石がとれる場所として有名な場所です。子ノ神層とよばれる秩父盆地をつくる第三系が分布しているのですが、今回はここでは河床に降りず、橋の上からながめただけでした。 次は赤平川をわたり「前原の不整合」を見学しました。ここは、以前にも地ハイで訪れている場所です。前回のときは、急な崖を怖い思いをしながら荒川の河原近くまでおりていったのですが、今回行ってみると埼玉県天然記念物に指定されたためか、不整合までの道が整備されて、安全に見学できるようになっていました。この不整合では、秩父層群とよばれる中古生層の黒色頁岩の上に、秩父盆地をつくる第三系の最下部の地層が覆いかぶさっているのが観察できました。不整合面の上にのる第三系はアルコース質砂岩で、基底礫とよばれる淘汰のあまりよくない礫岩が不整合面の直上にのっているのも観察できました。化石からだけではなく、こんな崖の様子からも秩父盆地の過去の様子を想像することができます。 再び道路の高さまで登り、少し県道を北東に歩いて、再び荒川の河川敷へ降りると、前原の不整合でみられたアルコース質砂岩よりも上位の地層が見られました。地層の重なり方に注意し、環境の変化を考えながら、河原を下流に向かって歩いていくと、大渕の河原に着きました。子供たちにとって、目玉ともいうべき化石採集ポイントです。 今回はたっぶりと時間をかけて化石採集をした結果、フミガイ、カガミガイ、ユキノアシタガイ、キリガイダマシ、ヒラコマ、ホタテガイなどなど、たくさんの種類の化石を見つけることができました。なかでも、ひとたびホタテガイの大きな化石を発見するやその周囲からいくつも同じような大きなホタテガイが顔を出し、喚声がわきました。また、この化石の含まれる地層は子ノ神層なのですが、この中には薄い火山灰の地層がいくつかあって、鍵層として追跡できるということも教えてもらいました。 お土産を背中に背負って、さらに下流へ歩いていくと、荒川の対岸に断層を見ることができました。これは、三波川変成帯の変成岩と秩父盆地をつくる第三系が接している「出牛−黒谷断層」と呼ばれる断層で、1999年8月の洪水によって初めて姿を表した露頭でした。 川を渡って近づくことはしませんでしたが、対岸からでも、断層面や左右の岩石の違いなどがよくわかりました。 最後は再び県道に戻り、さらに下流の栗谷瀬橋まで歩いて、蛇紋岩の露頭を確認して見学を終わりました。たくさんのお土産のあった一日だったことでしょう。 (参加51名) |
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梅雨の中休み、羽生駅を市営の無料バスに乗り出発、水郷公園へと向かいます。公園の屋根付きラウンジで資料を見ながら勉強です。このあたりは平坦で、この時期はヨシなど植生のために、歩いてみてもよく分かりません。航空写真や、ポーリンク調査の結果など見ながら地下の様子をイメージしていきます。 低湿地の稲作は沼地の泥を掘って高く盛り上げ、排水を良くして行われ“掘り上げ田”と呼ばれています。掘った窪地が深い溝になります。宝蔵時沼には木道が整備されており、菱やガマなどの水生植物が見られました。掘り上げ田には行けず、遠望しましたが、ヨシに被われていて見えませんでした。 ここにほ天然記念物の“ムジナモ”という食虫植物が自生しています。地下に埋没した谷に集まる地下水が水温を保ち、生育に適した環境を作るからです。ムジナモは昼食後に入つた水族館で見ることができました。 午後は公園直裏手で拡張工事の現場を訪れ、掘削した水路に露出した赤土を観察しました。台地にあるはずの赤土がこの付近では理没して、地下数mの所に見られます。ここでは鉱物の洗い出しを実践したり、海進海退・土地の沈降を考慮しながら、地史について議論して理解を深めました。帰りのバスを待っている間、公園のパーラーで地元のおじいさんから紹介された地ビールを飲んで、いい気分で家路につきました。 (参加43名) |
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地ハイではいろいろな分野を見て歩くようにしています。しかし、鉱物採集は場所が限定されてしまうのでなかなか行われる機会がありませんでした。今回は5年ぶりに秩父鉱山近辺での鉱物採集となりました。 前回は渦の沢と中津でしたが、今回は新しくなった「埼玉の自然を訪ねて」が出版されましたので、そこに出ているコースで大黒坑付近を廻ることにしました。平年より2週間以上早く梅雨が明け、猛暑の中やってきた面々は出合バス停から山鳥随道横のザクロ石の露頭と、ズリを叩きました。その後、大黒坑の前を通って川原におり、金属鉱物を求めてハンマーをふるいました。 交通が非常に不便なところなので、あっという間に帰りのバスの時刻がやってきてしまい、後ろ髪を引かれる思いで帰路に就きましたが、「もう一本後のバスの時間までやりたい!」と熱望する方も数人いて、案内者としては嬉しいような悲しいような‥‥バスが満員で大変だったと思いますが、たくさんのお土産に満足されたことでしょう。 (参加50名) |
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