地学団体研究会埼玉支部 日曜地学ハイキングの記録 第331回〜第340回(1999年8月〜2000年7月) |
第332回 川原の石を調べてみよう 1999年 10月17日
第333回 小野子火山の噴火史をさぐる
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ここ数年火山地形というと、伊豆諸島が多かったのですが、小野子山は群馬の火山で7,8年ほど前に歩いたことのある地域です。そのとき案内してくださった中村庄八さん(中之条高校)が一通り調査を終え、論文を発表されたため、ぜひとお願いして実現したのです。 小野子山は子持山とともに群馬県中央部にそびえる赤城、榛名の両成層火山の北の裾のに挟まれた火山でです。山頂からは関東周辺の山々を一望でき、この時期を選んだのもそんな理由からでした。高崎からJR吾妻線に乗り換え、小野上温泉駅でおります。宿も駅から近く、見学地まで割と簡単にアクセスできます。駅名でもある小野上温泉はボーリングによって出たお湯ですが、「美人の湯」というだけあって、寒風にさらされた山を降りても、まだ肌がすべすべしていました。 1日目は、午後集合で火山を乗せている海成層と湖成層を見学し、化石を探しました。谷後では林道沿いに海底にたまった緑色凝灰岩の中に海成の貝化石を見つけることができます。また、岩井堂付近の湖成層では、安山質の湖底に吹き出した溶岩であるシェードピロー(玄武岩なら枕状溶岩)や、湖底にたまった砂や泥の地層を観察しました。泥岩の中からは木の葉のはっきりした化石がとれました。もう夕暮れでしたが、みんな一生懸命さがしていました。夜の勉強会では、湖生層を造った湖と火山の関係が話題になりました。この湖は琵琶湖のように断層による陥没によってできた巨大なもので、その周辺の断層に沿って榛名・赤城をはじめとするこの付近の火山が分布するという内容でした。 2日日は小野子火山の三つの峰の一つである十二ヶ岳に登りました。天候に恵まれ朝は雲一つない快晴、山頂に着いた昼には日本海側からやって来る雲が少しかかりましたが、まずまずの眺めでした。小野子山は元々大きな成層火山でしたが、大半が浸食され、現在は十二ヶ岳、中ノ岳、小野子山に別れているのです。 その代わり、火山の内部を断面として見ることができます。山腹にできた寄生火山のの地層が見られるのは、ここだけではないかということです。登るに従って古い玄武岩質安山岩から新しい時代の溶岩へ移り変わっていきます。露頭を見ながら馴染みの薄い溶岩の見方を学んでいきました。一つの溶岩流でも中心部分は緻密ですが、周辺部は急冷のためガサガサして角礫岩のように見えます。伊豆大島で観察した溶岩流のことを思い出しながら歩きました。 頂上付近はきつい登山でしたが、山頂からは、北は谷川連峰、西は浅間山、南に榛名山、東は武尊山など、関東山地の火山が一望できました。少し風があり、寒かったのですが、気温はこの時期にしては暖かかったと思います。下りの足取りはとても速く、落ち葉を踏みしめてどんどん進みました。最後に安山岩の採石場で溶岩ドームの新鮮な断面を観察しました。一日目に見た湖生層の泥岩を押し上げて貫入した様子がわかりました。また、溶岩ドームの岩石は粘性が高いためか、白っぽく感じました。二日間を通してタイトルの通り、小野子火山の噴火たどれることができましたし、火山の断面を現地で見ながら、成層火山の特徴的な地形を一通り学ぶことができました。火山のない埼玉に住む私たちにとって火山地形を学ぶ最適なハイキングとなりましたでした。 {小島正順}(参加19名) |
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1999年最後の地ハイは、北春日部付近の古利根川周辺に分布する河畔砂丘の観察でした。小渕砂丘とよばれるこの河畔砂丘は、古利根川の東がわに3列に分布していて、西から「西側砂丘列」「中央砂丘列」「東側砂丘列」という名前がつけられています。 最初に訪れた北春日部教習所裏で観察したのは中央砂丘列でした。ここでは、みんなでハンドオーガーを使い、約2mの深さまで掘って、砂丘を作っている砂粒の様子をじっくりと観察しました。さらに、微地形にも注目しながら東側砂丘列にあたる住宅地へ向かうと、畑の中にいくつもの土器の破片が落ちているのを見つけることができました。ここでは、平安時代から現代のものまでの遺物が見つかるとのことです。 中央砂丘列の上に鎌倉時代には建立されていたという「浄春寺」で昼食をとったあと、中央砂丘列の最高点にあたる墓地で、地形の遠望をしながら、案内者の砂丘形成のシナリオを聞きました。様々な時代考証・地形の特徴などから組み立てられた3列の砂丘形成のシナリオはとても興味深いもので、熱心な質疑が交わされました。 最後に訪れた西側砂丘列では、工事中の掘り下げられた高さ3m程の穴があり、一時的な露頭がつくられていて、幸運にも西側砂丘と中央砂丘の不整合面やラミナも見ることができました。 地ハイ終了のあと、熱心な人たちはさらにオプションとして、八木崎駅近くの浜川戸砂丘まで足をのばし、日が着れるまで見学をつづけました。 ふだん、あまり気づかれることのない住宅地の中の砂丘で、奈良・平安時代のころからの時の流れを感じた一日でした。 {栗原直樹}(参加44名) |
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今日の天気予報は午後から雨、しかし、空はうす陽が射しており何とか持ちそうであった。 巾着田で、対岸の露頭を観察。対岸の崖は、目の前に大きく立ちはだかっていた。崖には丘陵をつくる地層がみられ、水面近くには青灰色のすべすべしたシルト層、その上にうす茶色の砂層が重なり、さらにゴツゴツした感じになっている厚い礫層があった。丘陵をつくる飯能礫層との説明であった。 ここで、参加者は1班約10名、6班に分かれ、河原の礫調査を行った。礫の種類はほとんどチャートと砂岩で秩父山地をつくる岩石とのことである。やや角張ったものが多く、あまり遠くから運ばれたのではないとの説明であった。調査の結果と説明を聞き終え、昼食に出たトン汁に舌鼓をうち、くつろいだ。 昼食後、対岸の崖の地層を観察しながらすすみ、高麗川にかかる、あいあい橋を渡り、河岸段丘の上の面の家並みのあるところに出た。しばらく、まち中を歩く、家並みのとぎれたところから、山道に入った。 山道の足下は、礫が多くみられた。この礫は、先ほど観察した丘陵をつくる礫であるとの説明であった。思ったよりも急登で息を切らせながら登った。高麗峠にでたところで小休止、周囲は、コナラを中心とした雑木林で低い常緑は、アオキやヒサカキとの説明で、ヤマザクラやアカマツもまじっている。 高麗丘陵を下り、途中、国道299号を横切り、天覧山への上りの道に出た。 天覧山の山頂はゴツゴツした岩石−チャートが露出していた。あいにくの曇り空で天気は悪くなりつつあり、残念ながら都心の高層ビル群は見えなかった。 しかし、山地から半島のように東に突きだした加治丘陵の稜線が観察できた。説明によると、加治丘陵は飯能台地よりもさらに古い、約60万年前の段丘の名残りだそうである。 天覧山を下り、市民会館と郷土館との間の「ふるきと歩道」を歩き、小さな谷に出た。さらに、その谷底に降りる。谷底の崖には角張った石を含む黒っぽいシルト層があった。この地層は、山地と平野の境界にそって分布し、山地をつくる硬い地層の凹みを埋めている飯能礫層下部層という地層との説明であった。 雨は率いに降り出すこともなく、昼食時は陽が射すなど冬枯れの高麗の里を楽しむことが出来た。なお、この後、有志は飯能駅の近くの居酒屋で今日のまとめを行いつつ、ひととき歓談した。 {高橋和行}(参加49名) |
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99年度の地ハイ案内「黒山三滝」は、今年度1回目の案内にして最後でしたが、所沢は当日の午前6:00頃は結構な雨模様でした。これまた、案内者にして地ハイ係の小生としては参加しないなどと言うことはあり得ず、天気予報の「雨のち晴れ」を信じて駆けつけました。 東飯能駅での極小時間の乗り継ぎを逸したため、越生発のバスはすでに超満員でしたが、人の体は(意識は)柔軟で、何とか乗り込むことができました。 幸いにして、男山三滝バス停で簡単な説明を終え、滝をつくるチャートの見学が終わる頃には晴れ上がりました。御荷鉾緑色岩類が所々顔を出すハイキングコースを三々五々歩き、龍恩寺に到着する頃には青空も見え始め、民家に普通に咲いている梅の花を見る余裕も出てきたようです。 学生時代より地質調査を始め20年を越しましたが、地質図の完成もさることながら、一番の楽しみは何と言っても木漏れ日の下での“昼飯”です。河原での調査では、“たき火”、寒くなければ、その後の“昼寝”。職場の出来事や、悩み、心配事など、自然に囲まれて、同じ釜の飯を食う友との語らいは何物にも変えられない道楽だと思っています。 「人生80年時代」と言われて久しい今日この頃ですが、体が動く限り、この“道楽”を求めていきたいと思います。「40の手習い」などという言葉もありますが、80まで生きると言うことになると、決してこの原稿の読者も安閑としていられないという感想を持つものと思います。とは言え、“ゆったりズム”が長生きの秘訣とも言われます。 それにしても、今回の化石採集(フズリナ)は大成功でした。地ハイでは、過去に2回あの露頭に行きましたが、いずれも天候が悪く、今回ほどの成果はありませんでした。 {富士見高校 松井正和}(参加45名) |
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ゾウの足跡化石発見は新聞にも発表され、2月に一般の方を対象に発掘調査の体験が行われました。そこに参加した地学の会の会員から、保存状態からいって早いうちに地ハイでいくべきだという意見をいただき、西縁丘陵団研にお願いして案内していただきました。足跡といえば10年前の入間川での調査を思い出します。 今回は昭島市の多摩川河川敷です。拝島駅から河岸段丘を下りながら河原に向かいます。早朝の雨でぬかるむ河川敷に下りると、足跡群は土嚢で囲まれていました。発掘してしまうともろいもので、水たまりの中にかろうじて30cm程の円形の窪みが見いだせるといった感じでした。足跡は4mの幅で、20m程続き、大きさが何種類かあることから、複数の個体がいたようです。鹿の仲間の足跡もありました。下流に向かい、水道橋の付近まで来ると炭化した株がありました。近くから発見されている球果の化石から、メタセコイアのものと考えられています。この付近からはイヌ科(オオカミ?)の下顎や、アケポノゾウの子供の頭骨もも発見されていることから、当時の生物の営みを伺うことができます。 水道橋下で現在の河床から少し離れたところに旧河道が彫り込んだ露頭が見られます。足跡化石の下の礫層です。足跡化石のところでは薄かったのですがここでは3m以上の厚さになっています。礫層の中はクロスラミナ(1つの地層の中に粒子の配列が見られ、地層のミニチュアが交差しながら入る)が発達しており、当時の水流の方向などが分かります。このような地層は、三角州などで、洪水のたびに土砂が堆積していたことを物語っています。洪水が収まった湿地の中をゾウや鹿が歩いたのでしょう。 昼食中に第一発見者の小泉さんからここで発見されたイヌ属の下顎の化石をみせていただいた後、拝島会館に向かい、午後の総会にのぞみました。 (参加55名) |
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2000年に入ってのはじめての地ハイを1月に高麗川で行いましたが、そこでの観察と同様に関東平野をつくる厚い地層の一番下にあたる地層の飯能礫層や山地をつくる地層と飯能礫層の境を観察しました。 はじめに、天覧山下で関東山地をつくる秩父層群という1.5〜3億年前の地層を観察しました。ここは能仁寺という由緒あるお寺の境内ということでハンマーを振るうことは出来ませんでしたが、1月に天覧山頂でみたチャートと同じでした。 つぎに、天覧山の西側から流れ出る入間川の枝沢の谷にはいりました。先ほどの天覧山下とさほど下ったようには思われないのですが、関東山地をつくる地層ではなく、白い帯を挟んだ砂や泥の地層が観察されました。白い帯の地層の下には角ばった礫もみられました。白い帯に見えたのは火山灰の層であるということで、発達したラミナが見られました。火山灰が流され再堆積したとのことです。 谷を下って行楽客でにぎわいを見せる飯能河原に行きました。河原では6班に分かれ、恒例の河原の礫調査を行いました。河原の両岸には秩父層群のチャートや石灰岩もありましたが、河原の礫もチャートや砂岩が多く含まれていました。石灰岩もありました。 飯能河原で昼食を摂ったあと、下流に向かい飯能大橋の下にでました。飯能河原は両岸が狭く山が迫っていましたが、この付近は両岸には段丘がみられる程度で地形もゆるやかで平野に出たという印象でした。水面より少し高いところに白色の地層が見えました。ここの地名を取って矢嵐凝灰岩層という有名な地層だそうです。双眼顕微鏡で観察させてもらうと、白い粒の中にキラキラ光る黒い粒が入っており手触りの感触はザラッとしていました。黒色で光っているのは角閃石や輝石という鉱物であるということです。 関東平野の西の端にあたる丘陵地帯の地層は、関東平野の成り立ちを探る重要なカギとなっているということで研究されているグル−ブの方の鉱物分析では、先ほど天覧山下の谷沢でみた白い帯の地層とこの矢颪凝灰岩層は同じ組成を示しているとのことでした。研究グループでは、この火山灰層を関東平野の西の縁で追って行かれるとのことで、今回は未発表の貴重な資料などを含めて、関東平野の成り立ちの謎に迫る話を聞かせてもらいました。 {高橋和行}(参加39名) |
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「地ハイで動物園?」と思われた方もいたのではないでしょうか。一見何の関連もなさそうですが、地層がつくられた年代を知るには、植物や動物の化石が必要不可欠となります。ゴキブリのように、古生代から現在に至るまで生存している動物もありますが、進化の過程で絶滅した動物が圧倒的です。また、ある一定期間生存し絶滅した動物でも、その限られた期間に進化し“高等”になるのが一般的です。したがって、骨格の大きさや形、それに付随するはずの器官を推定することにより、さらに細かい年代の区分が可能となるわけです。 現在生きている動物どうしでも、歯の本数、その組み合わせや特徴、前後(手)足の運び方や関節の位置、それらの統合としての棲息地や食物連鎖の関係、等々がたくみに組み合わさっているというようなことがわかり、実に興味ある説明でした。「森で暮らすのに一番適した骨格と大きさです」というような説明もあり、動物園はまさに進化の過程を学ぶ宝庫です(見る人が見れば!)。今回参加された方々は、皆「見る人」になったことと思います。 以上が“動物園地ハイ”を実施した「地ハイ係」としてのいいわけです。 しかし、地質学の根本原理としての「現在は過去を解く鍵である」は、当然進化を考える上でも通ずることで、“まず観察!”が今回のテーマだったように思われます。 参加者、案内者も含め、中・高年パワー炸裂の今日この頃ですが、今回だけは小学生など、将来の地質学界をしょって立つ“若い世代の研究者”の参加が望まれる一日でした。 ともあれ、快晴のもと一日中歩けば、のどが渇くのは当たり前。また、忙しい中、案内をかって出てくれた人をねぎらうのは、世間一般の常識。これを欠いては地ハイの存続など及ばぬこと必至。というわけで、案内者らと、さらに進化の学習を重ねた(8時頃までだったか)のであった。参加者の皆さんお疲れさまでした。 {松井正和}(参加54名) |
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官ノ倉山は、小川町の西に位置しハイキングのコースとしても親しまれています。“教科書的な岩石はすべて見られる”という小川町。今回のねらいの一つには、来年の地ハイ350回記念企画に群馬県下仁田町付近でとの案があり、そこで、同じような地質帯をなすこの地を、まず観察しようということがあります。 東武竹沢駅10時の集合時間には、すでに気温が30℃を超え、梅雨明けを思わせる空模様です。 午前中は、官の倉山東方の石尊山までの山登り。その間、天王峠付近の沢で砂岩泥岩互層を、官ノ倉山山頂付近ではチャート・チャート角礫岩といった、いずれも秩父帯に属する地層を観察しました。 昼食をとった石尊山山頂からは、北東方向に小川町や東松山市の市街地が、北西方向にはもやの中に榛名山・赤城山の稜線が、かすかなシルエットとして望むことができました。山頂にある小さな桐は、地元で“下里石”とよばれ板碑などにも使われている緑色片岩で囲われ、わざわざ下から運び上げた人々の“山の神”への思いが偲ばれます。 午後は、小川町駅に向っての下りです。ここでは、栃谷層と呼ばれる中生代白亜紀の海に積もった砂岩層や、兜川の川原では、金勝山石英閃岩緑岩(古生代ペルム紀:2億5000万年前にできたとされる花崗岩類)、それと断層で接する小川町層群(新生代新第三紀中新世:1600万年前頃の海に積もった地層)の砂岩層を観察しました。 最後のまとめでは、このような年代や種類の異なる様々な岩石や地層の分布を、“山の引っこし”になぞらえての解説、小川町と群馬県下仁田付近との関連についても紹介していただきました。 低山とはいえ、急坂をのぼり山頂での眺望を楽しみ、下山途中では石灰岩の間から湧き出る清水でしばし休息をとるなど、久しぶりに“ハイキング”とよぶにふさわしい地ハイを楽しむことができました。 (参加46名) |
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