地学団体研究会埼玉支部

日曜地学ハイキングの記録


 第201回〜第210回(1986年9月〜1987年7月)


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第201回 200回記念講演会・化石のレプリカづくり 1986年9月15日

 日曜地学ハイキング200回達成記念事業の第3弾として、県立自然史博物館で講演会と化石のレプリカづくりを行いました。
 午前中の講演会は「埼玉県の地形・地質」について、埼玉大学の堀口万吉さんにお話ししていただきました。これまで県内のあちこちで行われてきた日曜地学ハイキングの見学地の位置づけが分かるように、全体の話しをして欲しいと参加者からの希望が多かった内容です。
 昼休みには館内の見学を行いました。午後には、博物館の吉田健一さんの指導で、歯医者さんの印象剤を使って化石の型どりをし、その型に石こうを流し込んで、化石のレプリカをつくりました。
 また、これまでの地ハイの記録や参加者の感想などをまとめた「日曜地学ハイキング200回記念総括誌」が1冊1,000円で頒布されました。

{小幡喜一}(参加者 64名)

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第202回 秋の笠山をたずねて 1986年10月19日

 日曜地学ハイキング200回達成記念事業の第4弾として、最初に日曜地学ハイキング(当時は「日曜巡見会」といわれた)が行われた笠山をたずねました。第1回日曜巡見会に「笠山・堂平山」が選ばれたのは、チャートやスレートなどの秩父帯と玄武岩質の凝灰角礫岩や溶岩、斑れい岩からなるミカブ帯との関係がどうなっているのか、論争になっている場所だったからです。
 小川町駅前からバスに乗り、「切り通し」バス停で降りて、槻川沿いを南にすすみ、館川分岐で細かな葉理の見られる珪質スレート緑色凝灰岩互層を観察。ここからは館川に沿って歩き、館集落南西の川原でスランプ褶曲した赤色層状チャートや玄武岩質凝灰岩を観察。赤木集落付近で玄武岩質凝灰岩を観察しました。ここまでが秩父帯の地層です。これらの岩石の中からは最近、中生代の年代を示す放散虫の化石が発見されており、地層の形成について新しい資料を与えています。
 ここからは林道を登り、栗山集落の西のつづら折りで凝灰角礫岩や枕状溶岩の破片も観察しました。この露頭のあたりからミカブ帯の分布域に入ります。林道から急な登山道にはいり急な登りを進みました。笠山の頂上には変質した斑れい岩が見られました。
 

{小幡喜一}(参加者 26名)

パンフの表紙 裏表紙の地質図(安戸研究G,1982)

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第203回 荒川中流の第三紀層と化石−武川付近− 
            1986年11月19日

 午前10時、秩父鉄道の武川駅に集合。化石採集があるということで、小中学生や高校生も20人ほど集まりました。地元の中学校の先生や町役場の職員の方も参加されました。
 午前中は川本中学校グラウンド下からその上流の荒川の川原に広く露出する福田層を観察しました。
 川原には岩盤が露出し、強い流れによってポットホールができていました。凝灰岩・砂岩・泥岩・れき岩といった、海底につもった地層が観察でき、葉理や荷重痕、スランプといった堆積構造や、断層を調べて圧縮軸の方向を調べたりしました。また、ミオジプシナという大型有孔虫もありました。大型といっても3mmくらいでルーペがないと分かりませんでした。
 昼食後、下流の菅沼の川原に移動して土塩層の泥岩の中から貝化石を採集しました。皆さん熱心で立派な貝化石がたくさん掘り出されました。最後に、参加者によって採集された化石の説明をして、武川駅に戻り、午後3時過ぎ解散になりました。

{小幡喜一}(参加者 49名)

広く露出した地層を観察
採集された化石の説明に集まる

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第204回 宝蔵寺沼のおいたちをたずねて 1986年12月21日

 今回は駅から遠く離れた羽生市三田ヶ谷の宝蔵寺沼で地ハイを行いました。参加者は自家用車やタクシーを利用して集まりました。宝蔵寺沼は食虫植物ムジナモの自生地として有名なところですが、地学的に見ても興味深い現象がたくさんあります。
 この付近に見られる掘上げ田は、沼地に溝を掘ってその間を盛り上げて水田を開発したものだそうです。地下には埋没谷があり、谷を埋めた粘土や泥炭の軟弱な地層が隠されているそうです。
 埼玉県北東部は関東平野の沈降運動の中心で、ローム層ののった台地までもが利根川の氾濫堆積物の下に埋没して、広い低湿地をつくっているのだそうです。確かに、千葉や茨城、神奈川などの関東平野は低地に対し高い台地が多く広がっていますが、羽生・加須付近には台地が見られません。
 地下に1783(天明3)年の浅間山大噴火の噴出物が埋もれているというので、検土壌を突き立ててみました。土壌を採取してみると深さ20cm付近の粘土中からジャリッとした灰白色の火山灰がでてきました。
 現在は排水機場が整備され湿地がなくなり、掘り上げ田の多くが埋め立てられ、水郷公園・水族館建設のために大きく景観が変化してしまいました。しかし、低湿地の酸素不足の粘土と埋没谷の冷たい湧水に耐えて育ったムジナモや、そんな場所でも稲作をしようと掘上げ田をつくった江戸時代の人びとの苦労を忘れてはならないと思いました。

{小幡喜一}(参加者 15名)

検土壌を突き立て地下の火山灰を探す
堀上げ田のようす

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第205回 顕微鏡で岩石を調べよう 1987年 1月18日

 今回の一様地学ハイキングは、川越南高校の地学室で岩石薄片の作成と観察を行いました。「岩石図鑑を見ると美しい岩石薄片の顕微鏡写真が載っているので、作って観察してみたい。」「今まで日曜地学ハイキングで採集した岩石の薄片を見たい。」という参加者のご希望に応えての企画です。
 薄片のプロ、早稲田大学の力田さんが講師となり、薄片づくりの手ほどきを受けました。
 ダイヤモンドカッターで3cm×2cm×0.5cmほどに切断された岩石のチップを磨いて薄片を作ります。鉄板の上でカーボランダムという研磨剤をつかい少し水を加えて、平らになるまで石を磨き、さらにガラス板でアランダムをつかって磨くと、石の表面が鏡のようになります。これをスライドグラスに接着剤ではりつけて、さらに石をすり減らして最後は厚さ0.03mmになるまで綺麗に仕上げて、カバーガラスをはり付けます。
 石が片減りしたり、まわりが亡くなって丸くなってしまったり、初めてのことでなかなか上手く行かない人もいましたが、立派な薄片を仕上げる人もいました。
 薄片づくりは大変でしたが、偏光顕微鏡観察はたいへんきれいで皆、感動していました。

{小幡喜一}(参加者 40名)

薄片づくりのプロの技に注目

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第206回 早春の三宅島−1983年溶岩地帯を歩く− 
                1987年3月20日 〜22日

 1983年10月の火山噴火から3年あまりたち,三宅島の様子を観察に行きました。20日の晩東京、竹芝桟橋に集まり午後10時過ぎに出航、船の中での懇親会は盛り上がりました。明け方になって、三宅島に接岸しました。
 島に着くとすぐ火ノ山峠に登り、1962(昭和37)年の大噴火で流れ出した溶岩を眺めました。その後、雄山山頂の外輪山をまわり村営牧場に行き、今回の噴火の火山噴出物の真っ黒でガサガサしたスコリアの積もっている様子を見ました。
 そして、溶岩流の上を歩いて阿古地区に行きました。ここでは約400戸の家が溶岩に飲み込まれたそうです。溶岩の表面は発泡してガサガサしていました。溶岩流の先端は、阿古小・中学校に堰き止められていました。2階の窓から中に入ってみると、いすや机が残っていました。
 2日目は新澪池に行ってみました。1763年の噴火でできた爆裂火口に水が溜まった周囲1km深さ50mの神秘の湖であったそうです。周囲の原生林は野鳥の楽園であったそうですが、今回の噴火で周囲の木々の枝は払い落とされ、湖も干上がってしまい、マグマ水蒸気爆発による直径200mの噴火口が口を開けていました。その北側の砕屑丘の中には硫黄の付着した火山岩片や火山弾が落ちていました。
 赤場暁では、風化した玄武岩の中から灰長石の結晶を見つけました。中には2cmくらいの立派なものを見つけた人もいました。
 今回は参加者の皆さんにも係分担をお願いして、参加者全員で運営を行いました。
 

{小幡喜一}(参加者 32名)

阿古小・中学校で堰き止められた溶岩
新澪池付近で記念撮影

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第207回 秩父盆地の誕生をさぐる−皆野ふきん− 
               1987年 4月25日

 地団研の会員と地ハイ参加者が一緒になってとりくんできたガイドブック「日曜の地学」の二度目の全面改訂版、「日曜の地学1 埼玉の自然をたずねて」が4月20日に出版されたことを記念した日曜地学ハイキングを行いました。今回は「日曜の地学」の中でも定番の見学コースである「秩父盆地の誕生をさぐる−皆野ふきん−」を歩きました。案内者はこの項の執筆者、上村康夫さん。
 秩父鉄道皆野駅に午前10時集合。「前原の不整合」へ。約1650万年前に秩父盆地がへこみとなり、そこに堆積した地層と、その基盤となる約2億年前の秩父中・古生層の境界を観察し、秩父盆地に地層がたまり始めたころのようすを考えて見ました。つぎに郷平橋下の赤平川の川原に降りて、しま模様がはっきりした砂岩泥岩互層のようすを観察しました。ここでは貝の化石なども採集できました。
 昼食は大塚古墳でとりました。この古墳は結晶片岩でつくられた石室に入ることができます。たくさんもってきた新刊「日曜の地学」も飛ぶように売れました。
 午後は、黒谷の「和銅露天掘り跡」とされる場所に行きました。ここに見られる大きな溝は、地学的に見ると断層破砕帯のガウジで、向かって右側が約1500万年前の海に積もった秩父盆地の地層、左側は約2億年前の秩父中・古生層のチャートです。この断層は秩父盆地の北東縁部に連続して確認され、「出牛(じゅうし)−黒谷(くろや)断層」と言われています。秩父盆地の東側の外秩父山地がずり上がって、岩盤が断ち切られてできた大きな断層が地表に見えているのです。普通、このような断層は崩れた土砂に埋もれてみることができないので、この場所は重要な観察地だと思います。

{小幡喜一}(参加者 47名)

秩父堆積盆地の始まりを示す「前原の不整合」
「和銅露天掘りの跡」とされる出牛黒谷断層

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第208回 新緑の武甲山に登る 1987年 5月17日

 朝まで雨が降り続いていましたが、集合時間の午前8時20分には雨が上がりました。久々の武甲山です。
 西武秩父線横瀬駅には、新聞の開催案内を見て来られた元秩父市議会議員の熊崎さんが、武甲山に鍾乳洞のある可能性と、観光開発を熱く説かれました。
 今日のコースは生川(うぶがわ)ぞいの産業道路にそって歩き、表参道から登りました。武甲鉱業前あたりに、秩父盆地の第三系と秩父帯の中古生界の境界があります。舗装道路を5km近く歩き、砂利道になって300mほどのところから生まれるに降りると、武甲山山体の南側をつくる橋立層群と、東側の武川岳をつくる浦山層群が接し大きな破砕帯が見られます。
 林道に戻ってされに進むと、生川に架かる橋の右に入る登山道があり一丁目の丁目石があります。鱒釣り場を過ぎ、十八丁目の滝を見て、杉林の中を転石を見ながら登ります。三十八丁目までは塩基性火山岩類かみられますが、それから先は石灰岩が多くあります。山頂採掘で付け替えられた道の急な階段を上り詰めると御嶽神社があり、その裏が山頂です。
 山頂から採掘場越しに雨上がりの秩父盆地や山々を見渡すことができました。長者屋敷の頭から橋立をとおり浦山口駅に降り着いたのは4時半頃でした。

{小幡喜一}(参加者 17名)

パンフの表紙 裏表紙 けずられゆく武甲山

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第209回 さきたま古墳群付近の自然環境 1987年 6月21日

 第207回に引き続き、今回も新刊の「埼玉の自然をたずねて」に掲載したコースの中から選びました。
 案内役の平社さんは、江戸時代、文化文政(1810〜1826)の「新編武蔵風土記稿」や天保年間(1830〜1844)の「忍名所絵図」などを資料として配布し、江戸時代にはこの付近には大きな沼がいくつもあり、明治17(1884)年の地形図にも小針沼が描かれていることを示しました。
 その後、水田開発で古墳が切り崩され、沼が埋め立てられたこともあったそうです。
 ところが、小針沼があったゴミ焼却場の地下からは、古墳時代の住居跡が発掘されているというのです。この付近は古墳時代には高燥な台地が広がり、集落があり古墳群が造られたというのです。それが関東造盆地運動により埼玉県北東部が沈降していき、江戸時代には台地はすっかり沈んで沼ができるようになったしまったのだそうです。

{小幡喜一}(参加者 28名)

稲荷山古墳、丸墓山古墳が後ろに見える

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長瀞の変成岩と変形構造 1987年 7月19日

 日本の地質学発祥の地、長瀞を訪ねた先月のハイクは210回目。雨模様にもかかわらず、集合場所の秩父鉄道野上駅前には主婦、中学、高校生など30人が集まり、主催する地学団体研究会埼玉支部のメンバーたちも大張切り。
 ブドウ畑の間を歩いて荒川・高砂橋下流の河原へ下り、早速、岩場めぐり。上流の岩畳までは、海底につもった土砂、火山灰が地下1万mもの深さに押し込まれ、何百度の熱と圧力で変化し、再びもち上げられた結晶片岩が見られる。
 「シマ模様が小さく曲がっていたり、ずり切れたりしているのは大きな圧力を受けたため。長瀞は地質学の宝庫で、地下の様子が見られる“地球の窓”とも言われています」と、案内役の地学団体研究会のメンバーたちがていねいに説明する。
 高砂橋の上流から親鼻橋までは、県立公園の特別区【付記:国の名勝・天然記念物】で岩石の採取などは一切、禁止されている。橋の下流のここでは、ハンマーを使えるため、しばらく地質をじっくり観察する。世話人の1人小幡喜一・豊岡高校教諭が、川原の草を抜き、根の砂を黒塗りのおわんに入れて川水で洗い始める。
 「上流の岩石に含まれる金が砂金となって運ばれ、根に沈着して見つかることがあるんです」と小幡さん。これも、上流の特別区ではできないため、参加者たちがここで次々と試みるが、残念ながら成果なし。
 この後、一番見どころの岩畳や白鳥島の横倒ししゅう曲、昔の銅の試し掘り跡などを回り、4時ごろ、ハイクを終える。
 浦和市から来た浅野陽一君(12)は初めての参加ですが、ふつうのハイクでは気づかない地質の歴史がよくわかると目を輝かす。

{読売新聞1987年8月2日}(参加者 39名)

横臥褶曲
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