初期の「日曜巡検」は、秩父団研などの研究の成果を、研究した人が普及するものだった。しかし、巡検が回を重ねるうちに、多くの教師会員も案内役を引き受けるようになった。それとともに、見学地が種切れになり、自分で歩いてまとめたフィールド以外の所や、まったく専門外の内容についても、勉強して案内するようになった。案内役を引き受けると、見学コースを考え、文献をあさり、下見をして、案内のパンフレットを作らなければならない。また、巡検(地ハイ)の当日は、参加名が満足できる案内をしなければならない。時として、大勢の目で見ることによって思わぬ発見をしたり、小中学生に本質的な質問をされてビクッとすることもあった。案内をつとめると、地域の地質に対する理解がすすみ、問題点などもわかるようになってきた。
毎回「日曜地学ハイキング(地ハイ)」に参加していると、県内の地質を知ることができ、研究の空白地域や問題点も分かってきた。これが、研究するフィールドを選ぶうえで非常に役にたった。また、安戸団研や硬砂団研、比企団研などの団研に発展するものもあった。その成果はまた「地ハイ」に戻ってきている。
大学内だけの活動しかなかった埼玉支部が、「日曜巡検」を始めたことにより、会員外の教師などと交流を持つようになったのは画期的な変化だった。「日曜巡検(日曜地学ハイキング)」によって、支部活動はいっきに広がっていったのだ。県内各地で巡検をするうちに、教師や一般の地学に対する理解をひろめ、我々に対する支持者も多くなり、支部会員もふえてきた。もしも、「地ハイ」を行っていなければ、1968(昭和43)年に埼玉大学の文理学部地学研究室が廃止された時点で、埼玉支部はなくなっていたかもしれない。
1973(昭和48)年、高校の地学(2単位)必修がなくなったとき、他県では地学の教師の採用が打ち切られるところが多かったが、埼玉県では逆に、地学T(3単位)を必修にして地学U(3単位)を選択科目に採用する学校が多く、高校新設ともからんで、他支部の大学から多くの会員を教師会員としてむかえ、さらに支部拡大へとつながった。
学生会員がほとんどいない、散在会員ばかりの支部で、1982(昭和57)年に地団研総会を実施できたのも、日曜地学ハイキングを続けてきた成果といえる。
1969(昭和44)年9月23日、狭山丘陵において南関東研究グループと共催で行われた、番外の特別日曜巡検で、メタセコイヤやオオバタグルミなど、温暖な気候を示す植物化石群を発見。それまで、この化石群を産出した地層は氷河期に堆積したとされていたので、定説をくつがえす大発見となり、地質学雑誌に発表(短報)された。
1976(昭和51)年10月31日の、寄居で行われた第106回の地ハイでは、深沢川で当時中学生の宮田三郎君がサメの歯の化石を発見。新発見として地球科学に発表(短報)された。
しかし、1971(昭和48)年3月20日の第50回日曜巡検で発見された犬木のアンモナイトのように、きちんとした研究発表をしないまま行方不明になってしまったものもある。発見されたことについては発見者とともに研究発表すべきだが、我々の力不足などで眠っているものもあるのではないかと思うと残念だ。我々の「発見されたものは地元に返す」という考えをはっきり主張することと、案内役として発見されたものの意義を理解できるように勉強しておくことが必要だ。