TOP ■ちちぶ総会紹介シリーズ ■(2)秩父事件 〜圧政を変じて良政に改める〜 
日本地質学発祥の地・秩父(2)

   秩父事件 〜圧政を変じて良政に改める〜

 最終更新日:2023年3月25日

 

 かつて民衆の蜂起により、明治政府を震撼させた秩父事件について紹介します。
秩父事件とは
 1884年(明治17年)11月1日、秩父地域で起きた3000人をこえる組織的な農民蜂起で、歴史的にみても重要な事件です。秩父地域は山国で耕作地が少なく、養蚕で生計を支えていましたが、国際的な生糸暴落により、秩父の農民は困窮をきわめました。借金の延納などの交渉を続けたものの受け入れられず、追い込まれた民衆は、自らの生存をかけて、武装蜂起にいたりました。単なる一揆ではなく、非常に組織的で、総理を田代栄助、会計長を井上伝蔵、参謀長を菊池寛平が担い、厳格な軍律を定めていました。一時、秩父地域を制圧しましたが、政府から派遣された警察隊や憲兵隊の前に、奮闘むなしく最終的には敗北、解体されます。関係者には死刑を含む、過酷な処分が行われました。
秩父事件の進軍、敗走ルートと地形、地質
 秩父事件の推移を、関連する地形、地質と合わせながら紹介します。蜂起前夜の決起集会は、秩父市下吉田の椋神社で行われました。椋神社は秩父盆地の北部に位置し、農民ロケットの龍勢祭りで有名な神社です。現在、境内に写真のような秩父事件の像および顕彰碑が建てられています。民衆は簡易な武器を手に、丘陵を経て小鹿野に向かい、制圧後、大宮郷(現在の秩父市中心街)に向かいます。その時、小鹿野と大宮郷を隔てる尾田蒔(おだまき)丘陵(通称長尾根)の上に位置する音楽寺(秩父札所23番)にて、隊を整え、大宮郷になだれ込みました。尾田蒔丘陵は荒川の河成段丘の高位面で、段丘堆積物や、ローム層がみられます。しかし、政府から派遣された憲兵隊などと銃撃戦の末、劣勢におちいった蜂起隊は、群馬方面に向かい、神流川(かんながわ)に出ます。地質的には、秩父帯の付加体を抜け、山中地溝帯の白亜系が続くルートです。さらに十石峠(じっこくとうげ)を越え、信州の佐久地域まで敗走を続けた蜂起隊は、佐久の東馬流(ひがしまながし)で終焉を迎えます。
現代に生きる秩父事件
 秩父事件から約140年が経過します。時代は大きく変わりましたが、秩父の民衆が自らの生存をかけて追求した願いと希望を、私たちがどのように受け継ぐのかは、現代に生きる私たちの大きな課題だと思います。

(埼玉支部 関根一昭)

 


椋神社の秩父事件顕彰像


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