地団研埼玉支部 日曜地学ハイキング200回記念総括誌 1986.9

日曜地学ハイキング参加者の声

地学と私
   酒本忠班(上福岡市立第二中学校長)

 私が地学に興味を持ったのは小学3年生の頃である。遠足のとき採集した“みがき砂”(奥田凝灰岩)や貝化石、道路工事による切り通しに見られる小さな断層を発見したときの感動は、40年後の今日、なお鮮明に脳裏に焼きついている。今でもその近くを通るときには、立寄って懐かしんでいる。
 写真や図でなく、本物の自然との出会いは払に地質学へのあこがれと、興味・関心と、研究への意欲を持続させてくれている。
 中学生になっては、毎日放課後ハンマーを片手に、我が郷土、越生町の露頭の分布を調査し、露頭分布図を作ったものである。
 大学受験等で一時遠のいたが、大学から教員生活に入ると、“本よりも直接自然から学べ”というルイ=アガシーの言葉が私の脳裏を占有し、自然との生活が始まり、今も続いている。
 郷土を愛し、郷土を知るには、まず自然を知らねばならない。「子供達にも直接自然の体験をさせたい。そのためにはまず自分がやらなければならない。」こんなことを常々考えているとき、『日曜巡検』の会があることを知った。毎回参加して、県下のいろいろな地域の地質現象を知る喜びを得た。それと共に、以前採集した岩石・鉱物・化石等の鑑定をしてもらったり、地学に関する疑問に答えていただいき、おおいに前足し感謝したのを記憶している。
 子供達にも声をかけ一緒に参加するうちに常連になる者も続出した。中には、高校・大学に進学しても『日曜巡検』に参加し、地学の専門分野を研究している者もいる。楽しさの中、和気あいあいの中に、本当に自ら学ぶ喜びを感じとった者が多いと思う。
 20回記念として出版された『日曜の地学』好評の『新・日曜の地学』は身近な地域を扱い、平易な文章、親切な案内の中にも学問的な説明をも含んだ、埼玉の地学巡検案内書として多いに活用させていただいている。私は教員という仕事がら、この本を文字通り地学巡検に、ハイキングに、教師の現地研修会に役立たせてもらっている。
 さらに、私は教育センターに勤務し、文部省の理科の指導資料集を書いたり、その他いくつかの地学の本を書く機会に恵まれたが、この『日曜巡検』で得た体験や、知識および学び方などが、多いに役立ったことに感謝している。
 我々をとりまく自然環境は、都市化が進むにつれて開発され、自然に親しむ機会も少なくなってきている。そうした中で、直接自然に対面したとき、なすすべを知らない教師も増えている。ますます自然観察ができなくなってくる昨今である。自然を学ぶには、本物の自然から学ぶほかにない。そのためにも、この『日曜地学ハイキング』が今後も引続き発展し充実していくことを期侍しています。
 「山をかけ、野をめぐり、地の章を求め行く……」適度な運動にもなり、複雑な社会からの解放ともなり、さらに学問的な満足感も得られるこの会に賛美を贈ります。

GabbroとPm-1
   松本昭二(所沢市・元小学校教師)

 新聞の片隅に次のような案内がのっていた。
 ≪全県≫ 日曜地学ハイキング
  26日午前10時、武蔵野線東所沢駅前集合
  柳瀬川沿いに見られるローム層の観察
        地学団体研究会 埼玉支部
 地学ハイクに初参加。観察したものは、ローム層と軽石層・礫層と粘土層・粘土層の上からの湧水・地層の対比など。案内者は露頭の観察のしかた(崖の様子は図に表してみること、赤土や礫は手にとって調べてみる等)を説明された。露頭の様子を図示することも、赤土や礫を見分けることも要領よくはできなかったが、不明な点は相互に調べあっていく雰囲気を感じ好感が持てた。
 崖からころがり落ちたと思われる、径15cmほどで表面が、ザラついている正体不明の石についても、3〜4人の方が頭を寄せ合い、撫でたり叩いたりして“ガブロー”と判定。 帰宅してから調べてみると、「【はんれい岩・Gabbro】火山岩でいえば玄武岩に相当する塩基性の深成岩。斜長石・輝石・かんらん石を主成分とする。有色鉱物の量が多く……。」崖からころがりおちた、たった1個の石にもこんな中身があったとは驚きだ。この石、いまだにハンマーを受けつけないほど硬い。
 いまひとつ印象づけられたこと。
 「この層は軽石層でPm-1と名づけられており、下末吉ロ−ム層を特徴づける軽石層で赤土の地層を対比する場合に、異同を決める鍵となる。また、この土の少量を茶わんに入れよく水洗いして、残った鉱物を調べてみると有色鉱物の量が少なく、ジルコンを含んでいるのが特徴……。」
 持ち掃ったPm-1なるものを水洗いしてルーペでのぞいてみると、なるほど有色鉱物は少なく、白っぽい鉱物や透明なものが多い。どれがジルコンであるかわからないが、小粒で強く光っているのがある。「ジルコンは屈折率が非常に高い」というが?
 この日は、自転車でブラッと出かけたので半日だけの参加であったが、身近な場所で立川・武蔵野・下末吉の各ローム層や軽石層、礫層、湧水などを観察することができ収穫の多い日であった。これがきっかけとなり地学ハイキングに参加するようになった。
 丘陵地の露頭に見られる地層や断層・河床などに露出した地層中の化石の観察、ペグマタイト中や接触変成岩中に見られる鉱物など興味深いものが多くあった。また、地下水の異常な汲み上げの結黒と思われる地盤沈下の考案においては、自然のバランスをくずした時のしっぺ返しのきびしさを痛感した。露頭見学の折に、ひとつふたつと持ち帰った岩石や鉱物が地ハイを重ねるにつれて、サンプル数が増していくのも楽しみである。また、理科の学習を指導する際、参考になることも多くあった。しかし、同好の士が集まり、共に自然の中を歩く喜びに勝るものはないであろう。
 今年は日曜地学ハイキング200回を迎える記念の年にあたるそうで、地質調査講習会や三宅島行きなど各種の行事が組まれており期持しているが、これらの行事を起点として、この会が300回、400回へと発展していくことを強く望んでいる。と同時に20年もの長期問、地学ハイキングが継続されたことに敬意を表したい。
 地学ハイキングの折、サンプルとして持ち帰った石や砂が、棚に置ききれぬほどになっている。横綱は〔Gabbro〕である。〔Pm-1〕は小瓶の中に収まっている。そして、それぞれに、所沢市和田19750126と記されている。

初めて参加した日
   浜野 勇(都幾川村・畳業)

 私の本棚のはじっこに一冊の本がありました。『日曜の地学』という赤い背文字がこちらを向いたまま、10年以上も読まれることもなく置いてありました。それももそのはず買ってはみたものの内容が理解できなかったのです。
 ところが、ある日を境に一躍日の目を見ることになったのです。1980年10月19日、初めて参加した『日曜地学ハイキング』の日です。場所は東松山の岩殿でした。
 ハイキングだというので気軽に寄ったところ、オリエンテーリングだと聞きびっくりしました。それから、一日中びっくりのしどうしでした。
 ある露頭では「一番大きいレキは何cmですか。」という設問があり、こんなに石が出ている中からどうしてレキという石を見つけ出し、測ることができるかと思い、小学生が喜々として測っているのを呆然とみているだけでした。また、「不整合の黒い部分は何でしよう。」というのがあり、私達の班長が「亜炭らしい。」と答を出したとき、何もわからないのに、「当んないかも知れないけど、書いとくか。」と、駄洒落を飛ばしたのが、今でも赤面のいたりです。ちなみに、亜炭で正解でした。
 天気に恵まれず昼食の時点で切上げとなりましたが、とても楽しく過ごすことができました。そして、『日曜地学ハイキング』には毎回欠かさすに参加する様になりました。
 それ以来、『日曜の地学』は、中にアンダーラインが引かれ書き込みがされ、ぼろぼろになって、表紙はテープで補修されています。しかし、今度は第二版と一緒に本棚の真中に並んでいます。
 家の近くの露頭に一列にだけレキが層になって出ている所があります。ここなど、どうしてできたのか、自分で考えられるようになれれば、と思います。これからも続けて参加したいと思っております。

地球をトントン宝さがし
   伊澤陽子(浦和市・主婦)

 余所からどう見られているのでしょうね。いい年齢のオバンたちがなにを暇つぶししているかって思われているのではないでしょうか……。
 それぞれに多忙なんですよ。でも毎月第3日曜日が近くなると
「ネー、どうする」と電話が入るんです。
「お天気よさそうだから行こうか」
「お花見にいい時期ネ」テナことを言って家人が眠っている時間に南浦和駅に集まるワケです。
 「日曜地学ハイク」の「地学」をチョッと勝手に省略させてもらって、「日曜ハイク」に参加するのがシュミなのです。それならば「歩こう会」などに出かければ、年齢相応なのですが、ナゼか地面の下が気になるのです。
 もう7年も昔になりました。だれかが、「オモシロソーヨ」とこの会の話しを持ちこみました。「ソレ!」と小学生の子どもたちをダシにして親の方も参加することにしました。お弁当、水筒を持ってピクニック気分で案内者の説明もそっちのけの時期もありましたね。
 子どもは大きくなり、部活と重なったり、自分の興味のある方にはしって出席できなくなりました。「ダシガラになったワネ」と言いつつ、親の方は秩父の山々に出かけているワケです。
 何年か前の春、三浦半畠まで足をのばしましたネ。その折、横浜の妹一家も誘って参加したのですが、ハンマーで地層をたたいている会員の姿を見て、まだ小学生だっためいがいいました。  「オバチャン、どうして皆で地球をトントンしているの?」  そうなんです。地球をトントンして、眠っている宝をさがすのが楽しいんですヨネ。
 世の中いろいろなシュミの人がいてよろしいのではないでしょうか。

シャコの化石をみつけた
   飯塚晶子(自由の森学園中学2年)

 2年前の夏休み(1984年8月19日)、初めて日曜地学ハイキング(180回)に参加したときのことだった。
 その日はとてもあつくて、あっちこっちの地層などを見学して、一番最後に荒川の河原に化石採集にいったころは、もうくたくただった。でも、化石を取るのが一番の楽しみで参加したわたしとしては、とらずに帰るわけにもいかす、ハンマーとタガネをつかって、いちしょうけんめい石をわっていた。
「ぱらっ」と石がはがれて、きれいな貝の形がみえたときは、とってもうれしかった。 あるところでみつかると、その近くにまたありそうなので、てあたりしだいに石をわっていたのだが、なかなか他のがみつからない。中学生ぐらいの男の子が、すこくきれいなほたて貝の化石をみつけたので、うらやましくってその近くでさがしてみたけど、やっぱりだめだった。
 そこでそのへんを歩きまわって人があまりいないところをみつけて、そこでまた化石を探していたときだ。なにげなくひっくりかえした石のうらに、なにかのこうら甲羅のようなものがあったのだ。一瞬、石の模様かと思ったが、よくよくみると、どうも生物らしい。だんご虫を大きくしたみたいなかんじだった。
 それまで、貝のことしか考えていなかったので、とにかくびっくりして、まず、家族にみせにいったら、みんなもびっくりした。なんの生物か、先生にきいておいでというので、案内をしてくれていた人に、みせにいった。
 そうしたら、どうもシャコらしい、ということだった。だいぶ前から露出していたものらしくて、少し風化していて模様がはっきりしていない所があったのと、はじが少しかけていたのが残念だったが、そうたびたびでるものではないらしく、わたしにとっては、大収穫だった。記念撮影までしてもらい、すごくうれしかった。
 その化石は、今でも大切にとってある。みつけたときのことはずっと忘れられないだろう。そして、これからも、新しい発見を楽しみにしながら、日曜地学ハイキングに、参加したい。

いつでも学習の機会が
   石井弘一(幸手・長倉小学校)

 私が小・中学校をすごした学校のすぐ北側には、素晴らしい松林が東西に広がり、この松林の根元にはなぜか盛り上がった感じの砂状の層と赤土状の層が形よく発達していた。
 小高く、東西に連なった松林の北には川や沼が点在し、どこか日本画的な雰囲気があり、純日本風な田園風景をしていた。ここは、小さい頃から不思議な場所であり、好きな風景でもあった。しかし、この風景の成因については、すぐ近くに住んでいながら、何も知らなかったのが、私の少年時代だった。
 つまり、興味や関心をもったとしても、その頃の私の周囲には、それを説明してくれる人、書物、何か調べてみようとするグループ、そういうものが、ほとんどなかったと思う。
 小さい頃の疑問が解決されないまま大人になってしまった。………

 地質(特に野外で採取する活動)のおもしろさがわかってきたのは、教育センター(県立南)の研修会からだった。それまでにも自然(天体・気象)には、強い関心をもっていたし、登山の際にはめずらしそうな石をいくつも持ち帰っていた。そのおもしろさ(化石が採れて、自分のものになるうれしさこ学習なのだが)がわかってきた頃、地学ハイキングのニュースが私の所に伝わってきた。
 何をどう調べるのか。………調べるための手法がわかってくると自然を見る目が一歩すすみます。最初の参加は筑波山のザクロ石の採取だった。それからは、参加自由の雰囲気と、意欲さえあればいつでも学習の機会があるという環境に自分の性格がぴったり合って、とてもたのしい学習集団であると感じている。

 こういう自分の経験から、興味や関心を示した子どもたちに、学習の機会だけは積極的につくってやりたいと考えている。美しいもの、素晴らしいもの、そういうものをできるだけ多く、それぞれの特長をもった指導者が子どもたちにあたえ続けていく。
 主催する立場の人たちはとても大変な事ばかりだと思いますが、意志と意欲さえあれば、いつでも学習の機会があるという、この会の継続を願っております。

 今は、どちらかというと、子どもたち(現在、中学生だが)の方が積極的で、私はすこしぜいたくをしている気がします。
 私の住む館林の小高い松林。………すこし年月がかかりましたが、ここのもつ、意味の大きさがわかるようになってきました。

中津峡の地ハイに参加して
   乗原史典(浦和・木崎中2年)

 朝、4時半に目が覚めた。空は快晴でとても気持ちのいい朝でした。北浦和には5時半に着き、急いで電車に乗りました。ところが、弟が北浦和の駅のホームのベンチにサイフの入っている袋を忘れているのに気が付きました。途中でひき返しましたが、もう袋はありませんでした。そのおかげで6時半の池袋発快速急行に乗り遅れ、その20分あとのレッドアローに間一髪で間に合いました。これがあとで悲惨な結果になることとは、その時は思いもよりませんでした。
 中津川に着いて1時間位その付近で鉱物があるかハンマーでたたいたり、その土地の地質を説明してもらったりしました。それから下流の出合に下りました。ふつうならそこでみんなと行動するはずなのですが、サイフをなくして交通費が不足になっていました。帰りのバス料金をかせぐために出合から20km余り歩くことにしました。次のバスは2時36分発なのでこのバスに追い抜かれないように弟と友達と僕の3人で歩き始めました。30分程で弟がへたばったのでバスに乗せることにして、僕と友達はどんどん歩くことにしました。途中の道路沿いの岩石や地層を見ながらテクテク歩き中双里、滝ノ沢と休み休みきれいな川を右に左に見ながらどんどん歩きました。
 4時間余りでようやく大滝役場に着きました。しかし、せつやくしたお金は480円だけでした。そこから三峰口までバスに乗り、熊谷まわりで北浦和に帰ってきました。弟のなくしたサイフはなく、駅から家までも歩き、バスに乗れませんでした。家ではサイフのことでおこられ大変でした。
 今回の日曜地学ハイキングは最悪といいたいところですが、自然の中で思うぞんぶん歩けたので良かったと思います。ふだん運動不足でしたのでとても良い地学ハイキングになりました。これからも日曜地学ハイキングにすすんで参加してガンバッテいきます。

地ハイと私の興味
   帰山公夫(キヤマビニール工業所長)

 5月18日。5時起床、ハンマー、弁当などのはいったリュックをかついで家を出る。快晴。日中は人通りの多い通りも全く静かで、すがすがしい空気を吸い、地下鉄に乗る。
 きょうの地学ハイクは中津峡だ。6時半の池袋発秩父行の電車に乗る。ガラガラの電車内の乗客はほとんどハイキングスタイル、それも中年以上の年配者が多い。途中、顔なじみの青年、190回のとき同室だった松本さんや横田さんらに会う。
 集会場所の三峰口駅には、小幡さんらが地ハイの旗をもって持っていてくださった。やれやれとのんびりしていると、長いバスの行列に並ぶようにとの指示。寿司詰めのバスで大滝役場へ。さらに、中津川行の小型バスに乗換える。
 こんどは、ほとんど我々のグループだけだ小幡さんが、バスのマイクを借り、説明をはじめた。「今、バスは村の中心を通っています。」と言われても、狭い段々畑とわずかな民家が川に沿って点々とあるばかりだ。「この付近が開けているのは自泰断層と関係がある。中津峡は硬い中古生界の砂岩やチャートなのに、このあたりは軟らかい中生界の頁岩でできている。このために、河岸段丘ができたり崖すいが生じて開けている。」との話。見渡せど断層などどこにも見当たらない。しかし、塩沢部落をすぎると、バスの窓から川底が見え道路の路肩も見えない。怖いくらい垂直に切立った断崖になってきた。チャートらしい岩石が連なって、中津川渓谷の美観を演出している。やっぱり今までの地質とは異なる。1時間のバス見学が終わり、終点の中津川に着く。「この付近は栓から買入してきた石英せん緑岩で、風化し易い。」と説明される。
 地元の大滝中の先生だった小林さんの挨拶があって、歩き始める。石英せん緑岩の露頭を叩き、バスで来た道を戻る。小林さんは、「川岸にみられるミズナラは、コナラに比べて葉柄が短く、掌状には葉がつき、やや冷たい場所に多い。」と、植物の話もされる。出合のトンネル付近では、貫入してきた石英せん緑岩によって熱変成を受けた岩石を見る。まっ黒な硬く重い石がたくさん道に落ちている。「ホルンフェルスだ。」と、教えて下さる。本か何かで名前だけは知っていたのだが手にとって見るのは初めてだ。
 河原で弁当をパクつきながらも、周囲の石ころをハンマーで叩く。「チャートだ。」「砂岩だ。」「石英せん緑岩だ。」と加藤さんが教えて下さる。参加者名簿に記入し、トンネルをくぐって神流川の河原に下りる。茶褐色の大きな礫の頭をハンマーで叩くと、割れ目からキラキラ好く黄鉄鉱が現れる。あれもこれも欲しい石ばかりで、ポリ袋はだんだんおもくなってくる。朝より重くなったリュックをかつぎ、石灰岩の大岩壁を右手に仰ぎながら、帰途についた。
 私がこの地学ハイクを知ったのは、1984年5月頃の新聞だった。前からこうした企画を望んでいたので、それからの第3日曜日が楽しみになった。(それにしてもどうして今まで知らなかったのだろう。200回にもなるというのに……)
 私が地学関係に興味を抱いたのは50歳を過ぎてから山登りが好きになり、気象や地質も勉強するようになったからだ。さらに1978年ころか東京大地震の予言の本が現れてから、地震と防災に関心をもった。活新宿や伊藤和明氏の災害史もよみ、地震のあとの大火災の恐ろしさを知った。そして、冶防庁や都庁をたすねたり、都会議員などに働きかけてきた。
 私はこのほかに数年前から駿台天文講座に参加し、文京区の歴史講座、電力館科学ゼミナール、国立科学博物館友の会の講座や自然数育園での植物祝祭にも興味をわかせている。

砂映子(さえこ)とまあちゃんの地ハイ
   荻野 栄(本庄北高・社会科教師)

「えーと、このきらきら光ったまっ白いのは中津川の黄鉄鉱。こっちの緑っぽいのは寄居のヒスイ輝石。それにねえ、これは越生町でとったフズリナの化石。こっちは碓か吉田町でとったフミガイの化石。そこにある透き通っているのが二子山のチャート。」
「ぼくのはだよ、硯(すずり)にもなる粘板岩。ぱくは習字をやっているから、これで硯を造ろうと思ってんだ。このピンクの石は長瀞の紅簾片岩。さくらもちみたいだろう。この緑のも長瀞の変成岩。この六角形の粒がきれいに並んでいるのはねえ、どこの山だったか、歩いているとき拾った方解石だよ。みんなぼくの宝物だよ。えっへん、どんなもんだい。」
「ヘエー、地ハイっておもしろそうだなあ。今度はばくも連れてって!」
「おや、誰かと思ったら、昌志君が来てたのか。」
「あっ、お父さん。今度地ハイに昌志君さそっていい?」
「いいともいいとも。山や野や川を歩いて、体も丈夫になるし、山のいい空気を吸うことは森林浴にもなる。おなかがすいて、河原で食う弁当なんてのは最高だよ。」
「お父さんはどんな石ためた?」
「うん、とにかくいろいろたまったよ。不思議なんだな、石を覚えると。それまでは地球の表しか目に入らなかったけど、今度は中まで見えてきちゃうんだよ。だから、何だか世界が2倍になったような気がしてきちゃうんだな。なぜって、地底の世界が加わったからさ。」
「ふうーん。」
「ところでさ、うちの天水(てんすい)の田んぼの横にまんじゅう形のちっちゃな高まりがあるだろ。ありゃあ一体何だろう? 自然にできたものか、それとも人が造った墓か?もし墓なら……中から……ミイラが!」
「キャーツ!おどかさないでよう。おじさん。」
「ごめんごめん。おじさん、人をおどかす悪趣味があるんでね。とにかく行って調べてみないか?」
「どうする? 砂映子ちゃん。」
「う……ん。だけど何だかこわい感じ。」
「それがおもしろいんじゃん。行こ行こ!」
「うん、じゃ行く。昌志君もね。」
こうして、みんなは天水の田んぼにやってきたのでした。
「まあちゃん、このまんじゅう山の高さば何mぐらい?」
「だいたいねえ、3m。」
「そうそう。周囲は約20mぐらいだろ、1歩を1mとして。さてと、この小山の造り主は?」
「…………………………………………」
「どうした3人とも。見当もつかないって顔だな。地ハイで教わったことからわかんないか?」
「教わったことからか……。あっ、石が顔を出してる。それも平べったい石ばかりが重なっている感じだ。これは結晶片岩だよ。」
「ほほう、サスガ! じゃ、上にのってる土はどうかな?」
「じや、ぼく掘ってみる。───これは赤土だ。火山から降ってきたものじやない? ほら、上尾・桶川の台地のときのあれさ。」
 こうして、平らな水田の上に数万年前の火山灰であるロームの山があり、中に同じような形の平べったい石が重ねられていたことがわかった。これは火山から降ってきたものじやなく人間のしわざだ、ということになり、古墳だろうと推定した。
「するとやっぱり中にミイラが………」
「キャーツ!」


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