地団研埼玉支部 日曜地学ハイキング200回記念総括誌 1986.9

日曜地学ハイキングあれこれ
会員の日曜地学ハイキングの思い出

思い出の第一回日曜巡検
  故・町田二郎(元寄居城南中学校長)

 日曜地学ハイキング(日曜巡検)の記録を見て驚いた。いつの間にか20年も経過し200回を数える様になった。思っても見なかったことである。こんなに長く存続したのも会員諸君のもりあげの力によるものと思う。これを機会に係の方で何か計画があるらしく、感想なり意見なりを書けとのことなので、筆をとる。
 何から書いたらよいやら見当もつかないが日曜巡検の始まった当初は、誰彼となく参加したといえる。多分堀口さんや渋谷君などに呼びかけられ参加したものと思う。参加者の中では当初から、松原先生と共に一番の年配者であったと思う。若い連中に交って山野を抜渉するのは、何となく若がえってよいものある。
 思い出もおぼろげになったが、第1回の堂平、笠山の巡検は未だに印象に残っている。
1965年10月24日というと秋も半ばである。小川町駅より白石行きのバスに乗り、切り通しで下車、栗山赤木方面から流れでる槻川の支流に沿う道を笠山へと向って進む。道は舗装されて居らす土挨が立つ。館の部落へかかる手前の道中に大鳥居が立っている。印象的だ。堀口さんと話しながら進む。話の中で寄居図幅の話が出たが、今のところとてもではないができないとのことだった。笠山へ登る道は栗山部活を通って山道になるのである。赤木部落へ分かれる地点で堀口さんが平野君に、ここらで第一回の説明をしろと言う。平野君達が進論で研究した結果を説明したが、よく解らなかった。
 栗山部落の段々田圃の畦に腰をかけて昼食にする。秋の空はよく澄んでいて、赤とんぼがいくつかみえる。食後の果物として持参した柿をほおばる。30分ほど休息して頂上を目ざす。道は急になり赤土が湿ってすべり易い。色づきはじめた木の間がくれに烏の声が美しい。だんだん遅れて吉田幸太郎氏と最後尾を登る。息が切れて汗が出る。頂上の神社の石段の下に一人の男が仰向に寝て、「若い連中は年寄りをいたわる心が少ない、こんな年寄りを一人残して先に登ってしまう、こんな時にブランデーでもあれば元気になるのだがなあ−」と、うそぶいている者があった。後で分ったのだが東大の大久保先生であった。大久保先生との出会いはこれが最初である。急な石段を登って神社に詣でる。ここで堀口さんや大久保さんに緑色岩の話を聞く。基礎知識のない自分には何が何だかはっきり分らない。少休止の後、健脚の若い連中は尾根づたいに堂平山へと向かう。他の者は萩平を経て皆谷のバス停へと向かう。途中、植物採集をしながらすすきの原を分けて下る。皆谷のバス停は東に石灰岩を掘った跡が残っている。
 第一回の日曜巡検ではサンプルとして採集する岩石もあまりなかった。ただ見知らぬ人と友達になったのは大きな利益である。これが第一回の日曜巡検の思い出である。
 思うに自分としても数十回巡検に参加しているが、何としても一番ためになるのは、案内人になることである。資料作りやらその前に文献をあさり、下見聞をし、当日に備える。容易ではないが本人にとっては、一番もうかることである。

埼玉支部と日曜巡検
          渋谷 紘(戸田高校)

 埼玉支部が誕生したのは1954年である。しかし、支部活動はほとんどなく、「東京支部埼玉班」と呼んだほうが良いくらいであった。当時の支部会員の構成をみると、研究者、教師は非常に少なく、学生がほとんどであった。地団研の会員であるという意識が低く、総会が東京で行われても、出席するのはごく限られた一部の者だけであった。
 ところが、現在の埼玉支部は、学生会員がはとんどいなくなったものの、教師を中心に会員数が増加している。遠方で行われる総会にも大挙して出席するようになった。この最大の原因は、1965年に「日曜巡検」をはじめたことである。もし「日曜巡検」がなければ、すでに埼玉支部は消滅していたのではないだろうか。
 秩父団研の夏の調査のまとめの時、大久保雅弘会員から普及活動をしなければいけないことを指摘され、第1回の「日曜巡検」が計画されたことを記憶している。私が何とはなしに連格を出すことになり、その後だいぶ経過してから、支部に「日曜巡検係」を設置することになった。当時の埼玉支部にはいくつかの係があったが、名ばかりではとんど活動していなかったし、現在のように支部運営委員会なども持たれていなかった。
 私は2年間にわたり係をしたお陰でいろいろもうけさせていただいた。巡検の予定をたて、堀口会員のところで文献をあさり案内のパンフレットを作り、当日案内をしてきたことで、埼玉の地質について自然に勉強する事ができた。また、一般の人達を動かす勘どころ(説明のしかた・お土産・ペース・コースなど)やハガキの書きかた、事務処理の仕方など、多くのことを学ぶことができた。
 最初の頃は、埼玉支部独自で巡検を行うほどの実力など無かったし、どのように実施したらいいのか見当がつかなかったので、秩父団研との共催であった。何もわからす実行することだけ考えていた我々に、毎回参加しては根気よくいろいろと忠告してくれた大久保さんの存在を忘れてはならない。
 過去20年にわたり埼玉支部の第1の行事である「日曜地学ハイキング」を行ってきた。この間、参加者ばかりでなく、主催者側も多くのことを学ぶことができた。小学生に最も基本的な質問を受け、どう答えてよいかわからず、「ドキリ」としたことも何回となくあった。新鮮な多くの目により、新しい発見をすることもできた。巡検の参加者が育ち、大学で地学を学び会員になる者や、受身の状態から逆に案内者になる者も何人もでている。そんな中で、支部会員数は年々増加し、長期巡検や地域学習会がもたれ、団研や総会、理論の学習会に数多くの会員が参加するようになった。
 最初の頃は、案内状出し、案内書作り、案内、そして、実施後の事務処理とほとんど1人でしなければならず、大変であったが、非常にいい勉強になった。「日曜巡検」は案内者の勉強の場である。学生や若手の人達はもつと積極的に「日曜地学ハイキング」を主催し、自然に親しみ、実力を高めていく必要があるだろう。
 半人前にもみたなかった埼玉支部が、総会を引受けたり、「地学教育と科学運動」の編集をするまでになったのは、「日曜巡検」のおかげだと思っている。もし、「日曜巡検」を実施せず、また、大変だからといって途中で止めてしまっていたならば、ということを考えると「ゾッ」とする。今も形はどうあれ、巡検あっての埼玉支部である。
 最後に、今日の「日曜地学ハイキング」や埼玉支部があるのは、支部の会員の努力と、大久保雅弘会員のあたたかい助言と励ましがあったからである。このことは、けっして忘れてはならない。

日曜地学ハイクあれこれ
           竹内敏晴(庄和高校)

 私は第20回(1968.1.21)から第36回(1969.6.15)まで係を担当した立場で、その当時の事情や思い出を中心に記したいと思う。また、その印象に残った事がらについても若干ふれたい。
 初期の頃でとくに印象に残っていることは、教師層の参加が多く、しかも熱心に案内者に質問したり、貪欲に地質について吸収しようとする姿勢に満ちあふれていたことであった。堀口・大久保・村井さんらをとり囲んでの質問ぜめや、説明の一言一言を開きもらすまいと真剣にメモをとる態度、またパンフレットを食い入るように見つめる姿など今でも日に浮かぶ。
 当時は、高校地学が2単位必修となったものの「地学」そのものがまだ理科教育界に市民権を十分に得ていなかった状況のなか、専門外の教師層が急きょ地学を担当せざるを得なくなった事情が背景にあったように思われる。いわば、日曜巡検が教師の自主研修の一端を担っていたとも言えよう。
 また、初期の頃、潮干がりによく行ったことも記憶に残っている。今から考えると、古生態学や古環境学の進展に合せて、アナジャコやスナモグリの巣穴形態の研究をみんなでやってみようということで組まれたのではないかと思われる。巣穴に石こうを流し込み、固まり掘り出す間、潮干がりに興じ、おみやげにアサリをどっさり採ったものであった。
 一方、泊まりがけの巡検(神流川流域、奥武蔵、秩父鉱山、秩父盆地、二子山)もたびたび行われ、宿の手配、天候の心配、会計処理等に神経を使ったことも忘れられない。
 こうした中で、1968年に日曜巡検の成果がまとめられ「日曜の地学」(初版)として発刊されたことは特筆されよう。
 これは1回より20回までのパンフレットを下地にして作成されたものであった。大久保さんのお骨折りでできたものであったが、埼大の文理学部堀口研究室を作業部屋として、毎晩のように遅くまで執筆・編集が行われた。帰りの北浦和駅前での“一杯”がたまらなくなつかしい。
 この旧版は、生徒の野外実習用のテキストとしても、毎年数1000部も使用され、その中から地団研第3、第4世代の若手会員が育ってきたことはうれしいことであった。
 学校現場の管理化が進んだほか、高校に理科Tが導入され、また、会員の意識の変化、自然を見直そうという気運、生涯教育が叫ばれている今日、日曜地学ハイクは200回目を迎えるに至ったわけである。新しい時代の流れの中で、私たちはこれからどのようなハイクがふさわしく、必要なのか、衆知を集めて検討していかなければならないであろう。

『日曜巡検』から『日曜地学ハイキング』へ
        山下照夫(松山女子高校)

 日曜地学ハイキングが200回を数えること、偉大な業績であると思います。地学の普及に多大な功績をもたらしたことは申すまでもありません。後継者の方々がしっかりと受け継ぎ持続したことに、何ともいいようのないうれしさをおぼえます。今後も是非とも続けて500回にも1000回にも達していただきたいと思います。
 200回を続けることは、口では簡単に言えますが、並大抵のことではありません。思いおこしてみると、私が係を受け継いだのは、今から16年前になります。ちょうどその頃は、「日曜の地学」もややマンネリ化し、少しだらけ気味の時でした。まとめの本(日曜の地学・初版本)も出版して1年たち、参加者も固定化してきたのです。
 私は、当時、上尾の教職員住宅に住んでおりましたので、週1回の埼玉大学教養部の地学教室での打合わせ会や、学習会も休むことなく出席できました。堀口会員をはじめ、村井・竹内・小勝・渋谷・平野の各会員等とはいつもいろいろと学習させて戴きました。
 そんな中で、「日曜の地学」をなんとか盛り上げようと、私のときに初めて、朝日新聞の埼玉版に「お知らせ」を出してもらったのです。これをきっかけに、固定化した参加者の他に一般の人や主婦たちも参加するようになりました。名称も、第51回から、それまでの『日曜巡検』という堅苦しい名称を止め、『日曜地学ハイキング』と改めたのです。そうしたところ、多くの方々から葉書や手紙をいただくようになりました。
 当時は、係1人で見学地の設定や、日程、交通などを計画して、ガリ版で原紙を切り、200枚からの葉書を印刷していました。今でもそうでしょうが大変な仕事量でした。何度か下見もしました。しかし、県内の地質の勉強は、係を1度やれば誰でも推しも推されもしないオーソリティーになること受けあいです。
 当時、私は長期巡検の係もやっておりました。夏休みを利用して、日本各地のタイプロカリティーを、順次、毎年見て来ようというもので、県内の高校数師を中心としてグループを範み実施したものです。
 この『日曜地学ハイキング』および『長期巡検』を通しての人間関係(仲間意識)にも、多く得るものがありました。夜を撤しての討論もあり、酒もたくさん飲みました。数多くのことが走馬燈の如く思いおこせ懐かしく思います。今後も、県民のための地学教育と、よりよい地学の普及と発展を祈り、埼玉支部の充実した着実な活動を期待します。

日曜地学ハイキングの想い出
       黒須岑生(上尾沼南高校)

 私が地学ハイキングの係だったのは、1971年〜1973年の3年間だったと思います。1971年は、山下照夫会員のサブ役だったのですが、この年は丁度「日曜地学ハイキング」という新名称を使い始めた年でした。1969年頃から参加者の伸び悩みが続き、何とか打開しよう七いう空気が支部内に強く感じられた時で、名称を変えたのもこの事が1つの原因だったと思います。新たな飛躍も祈って変更した「日曜地学ハイキング」の新名称は、大きな効果がありました。これを機に、春や初冬の穏やかな天候の時など参加者が大巾に増えたのです。
 また、名称が親しみ易くなったこともあり新聞なども催物案内に載せてくれるようになりました。1番よく載せてくれたのは、読売新聞だったと記憶しています。職場の友人などから「案内が載っていたよ」といわれるとホツとすると同時に、大変嬉しかったものでした。何しろ係をして1番気にかかるのは、無事にハイキングが実施できるかどうかということと、もう1つは参加者がどの位かということでしたから。
 私の参加者増加策のもう1つは、ハイキング地付近の全部の小中学校の理科担当者宛に葉書をもらさず送ったことでした。毎回、昼休みなどを利用してアンケートをとりましたが、「どうして知りましたか」という質問に「新聞」と、「先生から聞いて」という答えがかなりあったことは、この方法で参加者の拡大をはかれたことの証になるでしょう。勿論、この中から会員の教え子達のアンケートを除いてのことです。
 第何回かは忘れましたが、日曜地学ハイキングの旗を作ったのも忘れられません。1本は、山木尋子会員作のもので、紺地に白の刺繍文字とハンマーの刺繍がデザインされ、日曜地学ハイキングらしいものでした。この旗は今も使われています。もう1本は、払が友人に頼んで書いてもらった字を切り抜いて、クリーム色の他に縫いつけたものでしたが、今は紛失してしまったようです。当時は、2本の旗を集合に、説明に、おおいに使ったものでした。
 見学でこの頃印象に残っているのは、第59回の町田二郎会員案内による「円良田湖・玉淀ダム」ハイキングです。結晶片岩を主に見学しましたが、他に、少林寺の五百羅漢さんをみたり、コース途中の数々の植物も説明していただいたり、巾広く自然に親しむことができました。行楽シーズン(4/30)だったこともあり、当時としては大成功ともいえる、70名以上の参加があり、係として大変嬉しかったものです。今は、故人となられた町田二郎会員が、ハンチングベレーをやや斜めにかぶり、首にタオルをかけた姿で、身振り、手振りよろしく説明している様子が、今でも眼前に浮かびます。
 日曜地学ハイキングの係をさせていただいて得たものは沢山ありますが、地団研会員外の多くの方達と知り合えたのも、払にとって1つの喜びでした。
 高齢にもかかわらず、身体の調子さえよければ毎回のように参加していただいた方、毎回必ず生徒をつれて参加していただいた東京の小学校の先生、ご姉妹でよく参加していただいた川越の幼稚園の先生などなど。今でも年賀状の交換をしている方も多く、係をしていたからこそ得られた、大切な友人といえます。
 雑然と書き連ねましたが、最後に、これからこんなハイキングも良いのではないかということを1つあげてぺンを置かせていただきます。
 地質を中心にしながら、植生や動物生態などもからめた、広い視野からの自然観察などは、いかがでしょうか。

ダンプで川を渡った日曜巡検
     千代田厚史(春日部女子高校)

 日曜巡検に初めて参加したのは、高校2年(1971年)の秋のことであった。コースは「秩父盆地ヨーパケ付近の地質案内」(第53回)、「日曜の地学」改訂版にこのコースが載る前の最初の企画であったと思う。
 この参加は奥手の部類に属するだろう。以前から地学室前の廊下に置かれた、手製の掲示板に毎月、T先生が熱心に連結ハガキを貼りだしていた。その掲示を見るたびに出かけてみたいなあと、思いを募らせていたが、なかなか重い腰は上がらなかった。
 ある日地学室で遊んでいた数人はT先生の一声でパンフ作りを手伝うはめになってしまった。二つ折にし、流れ作業でホッチキスでとめる。このパンフ作りが、その時手渡されたパンフが日曜巡検の参加を決定づけ、行動に移させたのである。パンフ作りがなかったらもっと遅かっただろう。
 ふつう秩父へは大宮・熊谷回りで行くのだが、その日は池袋へ出、西武線を利用した。池袋−秩父間は当時310円。  帰りのバスの窓から見た、晩秋の長尾根の紅菜は満足感と充実感も加わってどこの紅葉よりもずっと美しくみえたことを今でもはっきりと憶えている。
 保存してあるパンフを開いてみると、10数ページにわたって秩父盆地の地質の解説・級化層理やスランプ構造など堆積構造の解説が載っている。良くまとまった出来映えには今でも感心する。パンフも大切な質料といえる。

地ハイ係をしてみて
        東原庸一郎(都立墨田川高校)

 1973年(昭和43年)4月の加治丘陵(第70回)から翌年3月の吉見丘陵(第80回)まで11回分の担当をしました。当時は地学ハイキングのスタイルも決まって、担当者は年度の当初に計画をたてて事前(2〜3ヶ月前)に案内者に依頼し、許可を得ておきます。ですから比較的スムーズに仕事ができたと思います。
 仕事の内容で大変だったのは毎回の連絡で2週間前には済んでおく必要があること。また巡検当日の天気が心配であったことなどです。印象に残ったのは上野動物園の進化の勉強と私が案内した城ヶ島のハイキングでした。
 当時は地学の授業も週2時間の必修でしたから生徒に年間自由研究という形で野外観察をさせており、ハイキングにも時々参加していたようです。私自身も埼玉県の地史を学んでおく必要があり、ずい分参加し、勉強させてもらいました。最近では私の愚息が結構参加しており、世代交代してしまいました。日常の忙しさからつい日曜日くらい休みたいというのが本音で地学ハイキングからも遠ざかっており、もう少し参加して自然から学ぶ姿勢を、と反省しております。
 今後も続けて支部の活動の中心になって欲しいと思っております。

日曜地学ハイクで得たもの
           佐藤睦司(坂戸高)

 「日曜巡検」と呼ばれた頃から「日曜地学ハイキング」と変ったけれども、早200回になるというので“たまげたもんだ”というのが実感です。地学ハイクの係、案内係の皆さんに感謝したいと思います。また、埼玉支部の一員として、ともどもよろこびを分かちあいたいと思います。
 最初の100回位はほぼ毎回参加することができました。地学の授業を担当するので、広く県内の地質をみておとう、というのが参加のきっかけでした。
 最初の頃のハイク係は渋谷 紘さん(当時川越高校)で資料の作成、配布、案内と大いそがしだったのを覚えています。当時のうす茶色に変色した、ファックスで印刷した資料を見ると改めて20年の歳月を感じます。当時案内係もかねてよく参加された方に堀口万吉さん(埼大)、息子さんを同伴しての大久保雅弘さん(当時東大)、かなり年配だった松原 勝さん(当時武南高校)、故・町田二郎さん(当時寄居中学校)、それに、村井武文さん(当時大宮西高校)、武井ケン朔さん(佼成学園高校)等々多くの方々に大変お世話になりました。
 特に関東ローム層については、地学ハイクに参加することなしには理解することはできなかったと思います。
  関東ローム層=火山灰層
位の理解にとどまっていたと思います。それに県内各地の地学ハイクに参加することにより、さまざまな岩石の肉眼鑑定の目が養われ、また県内の地層の分布についての理解が深め られたことです。
 そうこうするうちに案内役を引き受けることになり、何とかその任を果たすことができるようになりました。その頃、地団研で盛んに言われた「露頭で勝負」に刺激されて、生徒を野外実習に参加させることができました。これも、とにもかくにも地学ハイクなしには考えられないことだと思っています。

係は辛いが普及は楽しい
        昼間 明(都立青井高校)

 私がこの仕事を努めさせてもらったのが教員生活3年を迎えた春からでした。初仕事は第81回(1974.4)の越生の“地学オリエンテーリング”でした。ちょうどその頃オリエンテーリングが普及しはじめ、各地にパーマネントコースが設置され、さかんになりはじめた。当日の案内は大野・平社の両氏で、ふたりの創意・工夫がひじょうに生かされて、かなり盛況でした。参加者は予想をはるかに上回り(約100人)、てんてこまいてであったのを記憶しております。そして入賞者への表彰を行ったのもこれが最初であったと思います。この成果はさっそく「そくほう」Na262(1974.6)に“日本最初の地学オリエンテーリング開催”と題して報告しました。また当時地団研の会員が責任編集していた『国土と教育』No.28(1974.11)に詳しく紹介されました。
 その当時は支部会員の参加も多く、毎回初めに案内者の紹介に続いて参加した支部会員の紹介が恒例になっていた。会員は赤い帽子をかぶされ、巡検の途中で参加者からの質問の応対や補足説明に一役買っていました。そんなことがあって係が不慣れであっても、常に先輩の会員が手とり足とりと指揮していただいたので、全くといって不安がなく、むしろ参加してくる人との交流があり楽しいものでした。
 第91回(1975.4)からは係が3人に増え、係の体制がそれまで以上に強化されたことは確かです。また、いくつかの試みもしました。ひとつは係も案内者といっしょに下見に行こうということでした。さっそく何度か実行しましたが、すたれてしまいました。もうひとつは“地学ハイクニュース”を発行しようということでした。これは軌道に乗って(?)発行していました。
 さらに、越生で好評であったO.L.は、第95回の金勝山少年自然の家や第106回の寄居などで実施され、新しい巡検スタイルができてきた。とくに、第95回のときは町田さんの尽力でプラネタリュームの見学もでき、結構趣向がこらされていました。
 第100回記念の荒川中流(花園)でのときは河原にかまどを作って鍋でおしるこをこしらえ、参加者全員で乾杯したことを今でも忘れられません。おしること言ってもこしあんを駒井さんが安く仕入れてきたもので、こったものではありませんでしたが、まだ北風の吹く寒い季節でしたのでおいしく感じ、好評でした。また、このときだと思いますが、携帯用の簡易粒度表(ガラスを砕いてのりづけしたもの)を参加賞に配布しました。これは平社さんを中心として係が自前で、つくったものでした。これは非常に便利で私は今でも愛用しています。
 私は第81回から第100回までの約2年間と短い期間でしたが、比較的盛況のときでもあったためやら、100回という節目でもあり、つらいというより、むしろ楽しく、しかも埼玉の地質を知らなかったせいもあり、おおいに勉強になりました。最近はなにかにつけて参加することが少なくなり、大変いけないことと思っております。やはり、参加すればもうかることが山とあります。これからは3人の子供も歩けるようになったので“子供を連れて日曜地学ハイキング詣で”に出かけようと心がけています。これは私が日曜地学ハイキングを利用してもうけたせめてもの恩返しだと思っています。
 第300回はどんなかたちで迎えるのか楽しみです。

地ハイの思い出
        久津間文隆(浦和西高校)

 200回といっても、1年に10回、20年もよく続いたものだ。今でこそ、バードウォッチングやら何やらと色々な企画がとりくまれているが、始めた頃は画用的なことだったと思う。今まで係として地ハイを支えてきた支部会員と共に自然を学んできた参加者のおかげである。
 地ハイの案内をして  埼玉支部に異動して9年。教員になりたての頃は、県内の地質をしろうという目的で参加する回数も多かったが、色々な仕事が重なるにつれて、残念ながら年に2〜3回ぐらいしか参加できなくなっている。今まで、自分のフィールドである足柄地域で2回、高麗川で2回、池袋の石材1回の案内をさせてもらった。最近は年1回は案内しようと心がけている。
 というのは、案内はひじょうにもうかる。授業では出てこない素朴な疑問や予期せぬ質問にあわててしまうこともしばしばである。歩く距離、ルートのとり方からトイレなどまで地質屋のペースでははかれないから下見も大変である。パンフレットもなるべく図や絵を多く使って、地質現象に限らずコースにそった自然や文化財なども入れるようにしている。
 記録にない幻の地ハイ  もう15年以上も前の高校生のときのこと。確か9月の日曜巡検(当時はまだこう呼んでいた)は、そのとき高校の地学部で調査中の秩父帯南帯石舟層の地質見学(名栗村の有間谷あたり、今は有間ダムができている)であった。前日、パンプ作りを手伝い、顧問の渋谷会員の運転するトヨエースで集合場所の東飯能へ。秋晴れの最高の天気だったが、前日が台風だったため参加者ゼロ。今は雨でも10人くらい集まってしまうのに……。結局、中止になってしまった。偶然、その時のパンフだけは手元に残っていた。記録にない幻の第?回地ハイである。
 地学ハイキングは、埼玉支部のほこりである。最近は参加者もひじょうに能動的で質の高いものを要求してくる。これからも1回1回を大切にして楽しい地ハイをつくっていきたいと思う。


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