地団研埼玉支部 日曜地学ハイキング200回記念総括誌 1986.9

日曜地学ハイキングの今後について考える
日曜地学ハイキングがさらに発展するために

秩父は心のふるさと
         大久保雅弘(島根大学)

 石の上にも3年といいますが、埼玉で日曜巡検をはじめてから21年目で200回をむかえられることになって、まずはその粘りづよさに敬意を表します。私が参加したのは始めの数年間でしたが、秩父団研以来の懐かしい秩父の山々がいまでも頭に浮かんできます。秩父はわが心の故郷、といった感があります。
 その私が山陰にきたのが1971年でして、この地でも普及活動をと思い、右も左もわからぬままに、手始めに日曜巡検をやりました。ところが、埼玉や東京とはすいぶん勝手がちがうのです。
 まず、電車がないし、列車やバスはいたって不便です。なるほど、過疎地とはこういうものかと思いました。従って、バイクやマイカーによる現地集合となりますが、集合時間がおそくなるし、出発時間もおそくなり、東京にいた頃は6時半か7時ころに家を出ていたのが夢のようでした。おまけに、島根の地質は変化にとぼしく、アンモナイトやフズリナが簡単にみつかる埼玉とはかなり事情がちがうのです。
 しかし、土地カンがないうえに、新生界に不馴れな払にとっては、これも自分のためといいきかせて数年がんばりました。日曜巡検のいい所は、山道を歩きながら、おおぜいの人たちとだべれることにあります。そのおかげで顔なじみが次第にふえて、だんだんと出雲の風習になじんできました。
 企画を心配したり、実行して喜んだり驚いたりしているうちに4年ほど過ぎて、山陰版の「地学ハイキング」をつくることができました。これも“埼玉に追いつき追いこせ”の目標があったなればこそできたのだと思っています。
 私の普及活動は、地団研の日曜巡検ばかりではありませんが、経験をつうじてわかったこと、学んだことなどいろいろと考えてみました。多少、耳ざわりな部分があるかもしれませんが、感想を列記しておきます。
 ます、第1に、普及活動は必ず創造活動にむすびつく、との信念をもつことです。自分ことで恐縮ですが、この10年ほどの間に、当地の中新統から化石の新発見があいつぎましたが、いすれも普及活動(日曜巡検)のはね返り、ないしは波及効果の産物なんです。“普及なくしていい化石は集まらない”ことを身にしみて感じました。この場所ではどんな化石が珍しいのか、その化石がどんな意味をもっているのか、などを説明するのは私どもの役目です。化石にかぎらす、鉱物でも地層でも同じことで、最先端の話をしておけば、いつかはそれにつながる成果が出てくるものです。そして、その成果を然るべき形で公表すること、これもだいじなポイントです。
 第2に、専門家は、言葉のむつかしさと頭の固さを何とかすることです。難解な術語と科学水準とは無関係ですから、ハイレベルの内容を、できるだけやさしく話をする努力が、我々の頭をきたえてくれるでしょう。それはまた、論文と普及文との書き分けにもつながります。
 第3には、普及会などにでてくる写真のことですが、わかりやすく説得力のある写真が少ないようです。地質屋は、被写体が正面からピントよく撮れていたら満足するみたいですが、それだけでは他人様にみてもらう写真とはいい難いです。カメラアングルや構図を考え、絵画的センスのある写真がとれるように努力しなくては、と思います。ここでもまた、論文向き写真と、普及書向き写頁との区別が必要なんです。この点、TVの科学番租や紀行番組などの画面から、学びとることが多々あります。
 そして第4には、時の流れに応じたあたらしい方法や手段を、日曜巡検にもとり入れること、これはすでに実行されていると思うのですが、庶民的日常生活にマッチしないと長つづきしませんから。
 我々は、なに気なくフィールドで石をたたきますが、いまの学校教育にはこのような行為がなさすざます。それだけに、日曜巡検のさいに、自分の手で石をわり、化石や鉱物をみつけることが、新鮮な感動をよぶのではないかと思います。
 それに、参加される人たちの年齢がバラバラです。昨今の言葉でいえば、生涯教育をすでに実行していることでもあります。
 自信とファイトをもって、埼玉の日曜巡検がますます発展していくことを期待しています。

一般の人々から支持される地団研に
   武井ケン朔(佼成学園高校)

 日曜巡検が始まった1965年頃にはまだ「藤本博士は神様だ。」という感じがあった。当時、秩父団研の成果がまとめられつつあったのだが、藤本治義氏の意見しか聞いてくれないような雰囲気が支配的で、「大霜山押し被せ」があって初めて堂平山付近の秩父帯北帯の話しができるという調子だった。
 こんな状態を打ち破るために、団研の成果を出して藤本氏に対抗し、我々のやっていることは間違ってはいないとアピールしていく必要があった。日曜巡検の初めの頃は、そういう意気込みがあった。第1回は、そんな背景を象徴する、笠山・堂平山で行われたのである。現在は与党的な立場になってきているが、対立物を考えなくて良くなった訳ではない。対立物をはっきりと意識した活動が必要 であろう。
 普及は上からのものでなく、一般の人々と一緒になってやっていくものである。団研を住民から支持されるものにすることが大切である。現在、我々が行っている比企団研のフィールドは家の裏などにしか露頭がない。黙って人の家の庭にはいっていく訳にも行かず、断って見せてもらっている。地域の人たちの理解・協力がなければ調査ができない。我々のやっていることのビラでも作ろうとか、説明係りをつくれば良いとか話し合っている。
 また、第50回日曜巡検のとき犬木で発見されたアンモナイトのことは、後になってから知ったのだが、発見者もわからなくなっていて残念である。この他にもいろいろな化石がみつかっているのではないかと思う。案内をするときには、化石のもつ意味を説明すると同時に我々の姿勢を示し、個人のものとして埋もれてしまわないよう気を付けてほしい。
 秩父団研で、武甲山の案内書をつくったときは、堀口会員や村井会員のほかに、秩父自然科学博物館の動植物の人に聞いたり・民俗的なことも調べてまとめた。それが非常に好評であった。普及書については、地学だけにこだわらず、動物、植物、地形や地名、史跡・神社・仏閣など観光的なことも含め、もう少し幅広く考えていったら良いと思う。最近出された「中央線から見える山」などのように現場に行かなくてもわかるようなスケールの大きなものを考えていく必要はないだろうか。日曜地学ハイキングの参加者も多様化しているので、一般の人たちと一指になって企画することが大切になってきている。

日曜地学ハイキング200回記念に思う
   堀口万吉(埼玉大学)

 ともかく200回続いたということは、たいしたものである。歴代の係りの人達の努力とともに、毎回参加されてこの日曜地学ハイキングの会をもりたててこられた方々の熱意によって、20年200回の実績がつみあげられたことを思うと、皆さんに心から敬意を表するものである。この20年の間、日曜地学ハイキングの歩みに平行して「日曜の地学」の本も広い愛読者とともに多くの野外見学の案内をしてきているが、この本もまた日曜地学ハイキングの積み重ねてきた実績の産物といえる。日曜地学ハイキングの末長い発展を願って、重ねて祝意を申しのべる。
 最近の地質学分野の研究動向を見ると、コノドントや放散虫などの微化石あるいはプレート・テクトニクス説などにより、これまで考えられていた地質年代や地質構造が、大幅に改変されるかあるいは180度に近い転換を迫られるなど、ゆれ動いている時代とみることができる。このため地域の地質についてもまとめにくく、日曜地学ハイキングの企画や案内にも大きな苦労が伴っていることと思う。この点では日曜地学ハイキングの前身である“日曜巡検会”がはじめられたころ、“大家”の意見を鵜呑みにするのではなく、自分の目で確かめながら、生きた地学を学ぼうけという“初心にかえる”こともまた必要ではないかと考える。さらに、日曜地学ハイキングとは言うものの、対象を地学の分野に限らす植物や動物なども付け加えて幅の広い自然認識を心掛けてもいいのではないだろうか。
 日曜地学ハイキングは参加者とともにある。200回を記念してパンフレットを作られるなかでもそう意識してほしい。これまでも“日曜地学ハイキングニュース”に、何回か参加者の意見や感想が載せられていたが、これらも転載されてまとめておくことをお願いする。

最多案内をめざして
   平社定夫(春日部高校)

 18年前、はじめて日曜地学ハイキングに参加した。最初のころは、地質にふれることが楽しくて毎回のように参加した。手にまめをつくり化石をとり、ぐちゃぐちゃの関東ローム層の崖をよじのぼった。整理もしないくせにサンプルはよく集め、いつもリュックがいっぱいになった。
 しかし、最近ではなにかと忙しく、なかなか参加できす、たいへん残念に思っている。せめて、案内だけは年に一回やることにしている。一時あれだけ日曜地学ハイキングに燃えて参加し、いろいろと敢えてもらった事を思いだしながら案内をしている。
 このように、年に一回であるが案内をつとめていると、いろいろな意味で勉強になり、大いにもうけさせてもらっている。こまかいことを私が書くまでもないと思うが、準備や当日の案内となかなか苦労する。「従来のコースを前と同じように案内したのではおもしろくない。なんとかして新しい視点をいれたい。」と、いろいろ考えている。
 越生にいたとき、大野さん・佐藤さんと相談し、オリエンテーリングを取りいれたことがあった。日本(世界)初の地学オリエンテーリングと、たいへん評判がよかったことをおぼえている。また、春日部にきてからは、低地での地学ハイキングを考えている。山にいった時ほどお土産はないし、壮快な気分にもなれない。しかし、人口のかなりの部分が住む、この低地を扱っていくことの地学的価値はおおきいと思う。
 現在、私は案内者ランキングの第3位に登録されている。さいわい1位、2位の方々は年をとっているので、ランキング1位は時間の問題である。これからは、「量だけにかぎらず質的にもがんばろう。」と、思っている。

あらたなステップ
   保科 裕(久喜高校)

 石油で有名な新潟県の中央油帯、中永ルートの泥と砂の地層が交互に重なる崖。学生当時、日曜地学ハイキングをゼミで主催し、初めて案内者として説明したところである。生(なま)かじりの知識をすべてしゃべり、えらくむずかしい説明をしたことだろう。地団研新潟支部(この頃はまだ高田支部)が継続して行うようになった第1回の地ハイである。
 この企画が我々にとって、自分たちで地学を学ぶ第1歩でもあった。地鉱教室基礎ゼミ主催の地ハイの提案・企画・上級生(特に院生)との協力・その地域についての学習・下見・パンフ作りなどみんなで生き生きとやった。どんな授業よりも、知識は別として、地質学を勉強する流れというか、方法論というかをおぼろげながらつかんだような気がする。地ハイを始めるにあたり、このときのスローガンは、なんと“埼玉支部の地ハイに続け”であった。何の因果か、現在埼玉支部にいる。
 教員となり埼玉支部にきて、やはり継続は力なりを実感した。特に、常連の人たちの地学への関心の深さには驚くばかである。また、家族つれの楽しそうな雰囲気も見ていてほほえましい。しかし、主催するとき、多くても2〜3人、たいていは1人で企画・運営しなければならないことが多く、みんなでワイワイやるという組織的なとりくみが足りないのではないか。地ハイを通して埼玉支部が強化され、我々の学習が深まらなければならないと思う。やはり原点に立ち返り、創造活動・普及活動・条件づくりの3本のひもを編むことによって、地ハイが我々にとっても、参加する人たちにとっても素晴らしいものになるのではないだろうか。
 最近、190回の荒川や200回の地質調査法など多くの人たちの協力によって新企画がすすめられ、また、「日曜の地学」改訂作業のなかで地ハイ参加者にも協力していただくなどいろいろな点で新しい試みがなされ、地ハイも新たなステップを踏み出しはじめている。このような動きを我々のみならす、地ハイ参加者とともにおしすすめることによって、日曜地学ハイキングの発展、ひいては埼玉支部の発展につながるであろう。

地ハイ第200回をむかえ さらに発展を
   松岡喜久次(富士見高校)

 日曜地学ハイキングは1965年の第1回目以来、今年で200回目をむかえました。20年もの長い間続けてきた重みが感じられます。他県にない実技であると胸をはれるでしょう。
 最初の頃の地ハイについては、高校時代の先生が中心となってやっていたのを覚えています。参加者は、高校生・大学生・教師で、案内のパンフレットも大学レベルのむすかしいものでした。
 あれから10数年後、地ハイ係の仕事を担当するようになると、参加者層が変わり、小学生・一般市民が多くなってきました。この間、地ハイを通して埼玉県内外を見てまわり、いろいろと学ぶことが多く、一般の人との交流も深まり、たいへん勉強になりました。
 現在、地ハイへの地団研会員の参加が少ない、マンネリ化しているなどの問題が指摘されています。埼玉支部会員は教師層が多いにもかかわらず、「日曜の地学」の数あるコースを実際にどれだけ歩いているでしょうか。地球の歴史を授業でおしえるためにも、会員は積極的に参加してゆくこと、参加者と交流を深め、参加者の要望を取り入れた地ハイにしてゆくことが求められます。そして、250回、300回をめざしてがんばりましょう。


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