地学団体研究会埼玉支部

日曜地学ハイキングの記録


 第311回〜第320回(1997年8月〜1998年7月)


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第311回 河原の石の見分け方 −寄居・立ヶ瀬河原−
                    1997年8月24日

  これまでも“河原の礫調査”をテーマとした地ハイは何度も行われています。そこでよく聞かれることば、石を見分けるコツを教えて欲しいという意見です。これまでの礫調査では磯の鑑定方法だけに時間を割いて解説したことがありませんでした。こうした声から生まれたのが河原の石をじっくり鑑定する企画です。さらに夏休み企画と銘打って拾った石で標本板を作ったり、砂岩を分類するための粒度表の製作も盛り込みました。石を見分けることは正式には岩石を作る鉱物の組成を調べなければなりません。今回はあまり堅いことをいわずに、表面の様子・色・形など、直感を大切にすることにしました。
 寄居町立ヶ瀬の荒川は、県内でも指折りの石の種類が多い場所です。基礎知識として、岩石が成因で分類されることを聞いてから、5,6人のグループに分かれました。各グループでは既存の分類にとらわれず、色や表面の様子で同じ仲間と考えられるものに分けました。そこでグループのリーダーがコツを披露し、問答形式で1つ1つ間違えやすい石を解説しました。グループで問答をしながら、自分なりの見分け方のコツがつかめたようです。コツがつかめた後は、標本板に使う石を各自拾い集めて、昼食の時間を使って完成させました。
 午後は、数日前にオープンしたばかりの「川の博物館」に向かい、会議室でPRビデオを見ました。最後に、立ヶ瀬の礫がどこから来たのかという講演を聞き、1日のおさらいをしました。博物館は大変な混雑でしたが、大半の方が見学していったようです。

(参加者75名)

5,6人のグループに分かれて石ころを分類 
石ころの標本板
づくり
 

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第312回 秩父盆地の地層と化石
         −吉田町・阿熊川/小鹿野町・ようばけ−

             1997年10月25〜26日

 うっすらと紅葉を始めた山々に囲まれた秩父盆地は、秋晴れに恵まれてた2日間でした。今回は午後3時に西武秩父駅に集合後すぐに宿に向かい、秩父盆地の地層や化石に関する学習会してから次の日の巡検に備えました。学習会の後半からは、長瀞を見てきた東京の地ハイと合流して、夕食後は大コンパとなりました。翌日の合同巡検は人数とコ−スの関係で2コースに別れました。1つは現地を調査してる秩父盆地新第三紀団体研究グループの研究をもとに露頭を見ていく「阿熊川コース」、もう一つは化石採集を通して秩父盆地の古環境などを考える「ようばけコース」です。
 「阿熊川コース」は秩父事件で有名な吉田町の椋神社から上流に 1km ほど行った高橋付近から川に下り、下流に向かって歩きました。この付近は秩父盆地の北縁中央にあたり、秩父の山々をつくる中生代や古生代の地層と盆地を埋めている第三紀の地層が時代を隔てて接する地点です。新第三紀層は南東に傾斜しているため、南に川を下るほど新しい時代の地層が出てきます。堆積物の変化や産出する化石の種類を観察しながら、秩父盆地の発生過程を考えました。
 「ようばけコース」は人気があり、80名近い人がカニやサメの歯を求めて石を割りました。昨晩は大きなサメの歯の実物などを見ながら、秩父盆地の化石について学習したので予備知識も十分だったと思います。
 今回は東京との合同で宿泊の地ハイを行ったため、それぞれの地ハイの雰囲気の違いがわかりました。埼玉の日曜地学の会の仲間も増えました。

(参加35名、東京支部と併せて90名程度)

“ようばけ”の崩れた岩を割って化石採集
民宿で記念撮影

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第313回 深まり行く秋を狭山丘陵にたずねて 1997年11月16日

 東京と埼玉の県境にある狭山湖と多摩湖を囲むようにして、東西に広がる丘陵が狭山丘陵です。小手指駅からバスで狭山湖の北方の荻原まで行き、湖西の雑木林全体が展示物という「緑の森博物館」に向かいました。案内者の一人である竹中ひとみさん(所沢西高校卒)は昨年「狭山丘陵の地質と珪藻化石からみた古環境」というテーマで、日本学生科学賞内閣総理大臣賞を受賞しました。今回はそのフィールドを紹介していただき、丘陵の生い立ちを露頭から感じ取ろうというがテーマです。
 博物館の案内所から狭山新道を南に向かうと10m近い切り通しの崖になっており、関東ローム層では一番古い時代の多摩ロームを見ることができます。この中に挟まれる特徴的な火山灰層や、その中の鉱物の種類について説明を受けました。狭山湖に向う途中にはローム層の下の芋窪礫層といわれる風化の激しい礫がみられます。この礫は多摩川が作った扇状地の堆積物と考えられています。狭山湖の北西に伸びる谷まで下りると、芋窪礫屑の下の狭山層が見られます。竹中さんが調べた「大沢」は谷の奥にあります。大沢に降りてシルトを中心に砂や礫を挟む地層の中から貝化石を採集しました。貝化石の他に、斑点や管状の模様をした生物の生活の痕跡の化石も見られました。
 ところで、竹中さんの研究テーマの珪藻はどこに含まれているのでしょうか。目を凝らしても見えません。珪藻を見るには顕微鏡で1000倍もの倍率が必要なのです。珪藻が出てきた青灰色のシルト層を前に、感触を手で確かめるのがせいぜいでした。シルト層は内湾から干潟のような場所で、陸域から柴を含む淡水が流入するような環境で堆積したと推定されるそうです。珪藻の研究は顕微鏡と奮闘する根気のいる作業です。種の同定から古環境の推定まで一人でやり遂げた竹中さんと、顧問の竹越さんには頭が下がる思いでした。

(参加57名)

狭山湖畔の露頭でローム層を観察
「大沢」は谷の奥で、竹中さんからの説明

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第314回 今なお進む地盤沈下 −岩槻北陸高校−
             1997年12月21日

 ここ岩槻北陸高校は校舎のあちこちに地盤沈下の爪跡をみることができます。例えば、玄関に通じる階段には、階段の昇り口のステップの下に新しい階段がつけ加えられいます。さらに、その階段も各段の色が遅い、地盤沈下が進むごとにつけ加えられたことがわかります。生徒ホールの表側では、地面と建物の間に空いたすき間を隠すために付けられた花壇が、その後の沈下で傾いています。駐車場の近くではマンホールが出っ張り、道路が波打ったりしています。大雨が降ると車が浸水するそうです。このような沈下はなぜ起こるのでしょうか。
 近くにある休耕田に行って、「検土杖(けんどじょう)」と呼ばれる1mほどの金属の棒で地層を掘り出してみました。地表近くは、湿り気のある田んぼの粘土ですが、1m近く掘り込むと、泥水に近い状態であることが分かりました。近くの水路にあった竹竿を田園に突き刺すと、4mも差し込むことができました。地盤沈下はこのような地層から、水分が失われて起こることが実感できました。ところで、地盤が沈下するとなぜ校舎が抜け上がってしまうのでしょうか。高層建築物は粘土層の下の堅い砂層まで杭を打ち込んでいるので、間の粘土層が縮めば、建物が取り残されるという訳です。深い地層は観察はできませんでしたが、後で校舎を建てるときのボーリング調査の資料から地下構造を考えることができました。
 午後は有名な川口の地盤沈下の典型的な現象をスライドで見た後、普段の授業で使っているという、実習教材を学習しました。揚水量の変化と沈下量の関係をグラフをつくって比較したり、航空写真を見ながら、低地と台地が入り組む地形や、川の淑替と人間生活について考えました。さらに、地下の構造をもとに、各時代ごとの関東地方の風景を思い浮かべながら、埼玉の平野の生い立ちを考えました。

(参加35名)

岩槻北陸高校ちかくの低地の様子
竹竿を差す(左)、検土杖で調べる(右)

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第315回 毛呂山丘陵で平野と山地の境界を見る−宿谷川− 
             1998年 1月18日

 今年は、エルニーニョの影響か暖冬で、南海上を通過する東シナ海低気圧が関東に大雪を何度も降らせました。まさか1月の地ハイがこの大雪の影響で中止になるとは誰も思わなかったことでしょう。「雨天中止」とあっても、人が集まれば案内をする地ハイが中止になるのはここ10年ほどなかったことです。中止の直接の原因は、成人式に降った大雪による倒木と、当日の冷たい雨のダブルパンチでした。沢に入れないということで、予め中止を宣言していましたので、当日の混乱はありませんでした。それでも、せっかく明けておいた休日を楽しむために、昼間から新年会をして帰った方々もいました。
 ところで、今回のテーマを簡単に説明しておきます。関東平野をつくる基盤の地層は中央部でくぽんだ形をしており、平野の堆積物で埋没しています(6月の加須低地など)。そのため、平野の境にある西部の丘陵を調べると関東平野発生期の情報が手にはいるという訳なのです。ところが、丘陵をつくる「上総層群」と呼ばれる地層は礫層が主体で、各丘陵間の対比が困難です。そこで活躍するのか、礫層に挟まれる火山灰層ということになります。火山灰は同時期に広範囲に降り積もりますので、火山灰を追跡できれば丘陵どうしの関係を明らかにできるのです。火山灰層のような地層を鍵層といいます。対比の作業は、まるで地層の探偵団のようになったことでしょう。

(参加12名)

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第316回 早春の伊豆大島でどっぷり火山漬けハイキング 
             1998年 3月21〜22日

 三宅島からもう2年、またまた3月の一泊地ハイに火山島が登場しました。というのも、1986年の噴火以来、入山禁止になっていた三原山への登山が解禁になったというのがきっかけでした。前回大島をめぐった第225回の地ハイでは、1986年に噴火から間もなかったため、三原山の冷えきらない溶岩からは、黙々と水蒸気が上がっていたそうです。今回は、三原山への登山を皮切りに、大島をつくった火山を古い時代から一通り観察しました。
 20日の夜に竹芝桟橋から船に乗り、船内で一夜を過ごして早朝、岡田港に到着しました。貸し切りのバスに乗り込んで、1986年の山腹割れ目噴火の火口列を遊歩道を登りながら見学した後、外輪山の上にある御神火茶屋まで行きました。前回はここまでしか近づけませんでしたが、今回は内輪山を一周して下りてきました。真っ黒い玄武岩の溶岩流を詳しくみると、滑らかな縄目模様がみられるパホイホイ溶岩と、表面がガサガサのアア溶岩が観察できました。いづれも、同じ玄武岩質の溶岩を噴出するハワイの現地語が語源です。火口付近はまだ水蒸気があがっている場所も所々見られました。内輪山を一周しましたが、霧がでて火口を眺めることがでませんでした。視界が悪いのが幸いして、急な内壁を見ることなく歩けました。火口を一周する間、見るものもないので、皆さん噴火で飛び散った火山弾を探そうと頑張っていました。また、溶岩の表面にば不思議な虹色の光沢があり、その美しさに魅了されました。
 茶屋で昼食をとった後、バス停の脇の崖と温泉ホテルの脇で、外輪山ができるときに降った火山豆石を観察しました。これは1cm弱の泥の粒で、噴火の時に火山灰が上空で霞のように集まってできたといわれています。いろいろな説がありますので、断面を観察して成因を考えるようにという案内者からの指示がありました。この後、岡田港付近の古い岡田火山の残地形と地層を観察し、火山博物館で、いろいろな火山の形態や、噴出物を見学しました。夕食後のまとめでは、大島の地下水と温泉の関係や、外輪山の東西非対象の原因などについて、充実した議論がされました。
 翌日は、教科書でもよく見かける「地層大切断面」に向かいました。ここでは波打った地形を覆って堆積した火山灰層と、その後の侵食で不整合の関係で堆積した火山灰層がみられます。スコリア〜火山灰が噴火の一サイクルということですが、リズミカルに綺麗な縞模様を描いています。ここでも、この地層がどう堆積したのか、喧々囂々の議論が始まりました。大切断面の後さらに南に下がり、イマサキ海岸、波浮の港を見学した後、筆島に向かいました。筆島は、古い火山の火道か海から侵食に耐えて残っている島です。近くには、マグマが地層の割れ目に沿って貫入した岩脈も見られました。最後の見学地、大島公園の近くの行者の窟に向かう途中、、思わぬ収穫がありました。外輪山の裏砂漠から続く溶岩流の上に降り積もった86年の火山噴出物が採集できたのです。これはよくペレーの涙といい割れる火山ガラスで、溶岩の風化物を30cmほど掘り込むと出てきました。みんな必死になって掘り出しました。
 行者の窟は、大島火山より古い火山の玄武岩の溶岩に、打ち寄せる彼の侵食によって洞窟ができたものです。ここで耳を済ますとゴロゴロという不思議な音が聞こえてきます。これは、波によって溶岩のかけらが転がる音です。すぐそばの行者浜には、真っ黒でまん丸い玄武岩かゴロゴロしていました。

(参加45名)

1986年の割れ目噴火の火口
1986年のアア溶岩の上を歩く
地層大断面で

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第317回 河原の石の見分け方(室内実習)−川越商業高校−
             1998年 4月19日

 昨年の8月の地ハイでは、寄居−立ヶ瀬河原で「河原の石の見分け方」を行いました。とても暑い中、グループに分かれて石を集めて、その特徴を調べました。当日は標本板や砂の粒度表の作成もあったため、テーマであった「見分け方」については十分な時間が取れませんでした。そこで、肉眼とルーペでの石の鑑定をじっくりと室内で…ということになったのです。
 前半は石の文鎮作りと題して、閃緑岩の切断面をつるつに磨いて研磨面を作成しました。石を見分けるポイントである岩石をつくる粒(鉱物)とその並び方(組織)を見るためです。研磨材(磨き粉)の粒子を細かいものにしていき、風景が映るぐらいにすると鉱物の色・形・並び方がはっきりしてきます。ルーペで観察するうちに鉱物の種類にまで話が発展しました。
 後半は、立ヶ瀬河原でサンプリングしておいた典型的な11種類の石の特徴を自分なりの表現で記録に残しました。さたに4・5人のグループでお互いに捉えた特徴を発表し合って自分が気づかなかった点や表現方法を補いました。11種類という数は多めでしたが、間違えやすい石の判別のコツをとらえるという点では面白かったのではないでしょうか。
 なお、今年は地ハイの前の午前中に総会を行いました。総会では「地ハイだよりの編集委員」の設置について提案があり、設置が了承された後、立候補を募りました。

(参加40名)

グループで石の特徴を討論

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第318回 新緑の武甲山をたずねて −横瀬町・秩父市−
              1998年 5月18日

 若葉の美しい季節の首都近郊のハイキングということで、問い合わせが多かった武甲山ですが、当日の早朝まで続いた雨で中止と判断された方もいたようです。ところが、集合時刻には雨も上かり、山頂に着く頃には晴れて秩父盆地を一望することかできました。
 横瀬駅を出発して表参道までの道筋には石灰工場が多く、砕石を運ぶ音や石灰の埃、水蒸気が湯気となってもうもうと上がり、石灰の山という印象を強く受けました。しかし、武甲山は全てが石灰岩でできている訳ではなく、北の盆地側は石灰岩ですが、南側は塩基性火山岩類からなります。
 表参道は武甲山の南の登山道なので、鳥居のある登山口からしばらくは緑色凝灰岩が転がります。この鳥居から丁目石が建てられています。頂上採掘後行われる前の、かつての山頂には54丁目の丁目石がありました。下りと併せて、登山により人の108の煩悩が消されるということでした。
 石灰岩採掘のため、裏参道は廃止され、表参道も山頂付近の42丁目以降は登山道が付け替えられてしまいました。今回は最近の地ハイにない厳しい行程で、特に付け替えられた42丁目以降の急登は大変でした。
 やっと山頂に着き、盆地を眺めるとかかっていた薄雲が嘘のように消えていきました。盆地はまるで箱庭のようで、段丘崖に残る緑が段丘地形を際だたせていました。見上げると西は両神山や二子山、遠くに浅間・榛名・赤城が見えます。駅から棚田のように見えた平坦面は、実は広大な採石場で、巨大な重機が点在していました。帰りは西参道を地層の変化を観察しながら下り、橋立を経て浦山口駅に向かいました。

(参加23名)

工場の前で石灰工業の説明
頂上からの秩父盆地と上武山地

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第319回 身近な湧水と井戸を調べよう −武蔵野台地の地質と地下水− 
               1998年 6月21日

 富士見市周辺は西の武蔵野台地と、東の荒川低地の境にあたる地域です。台地は関東ローム層に被われていますが、その下は武蔵野レキ層と呼ばれる5〜10万年前川によって運ばれたレキから成る地層があります。地下水はこのレキ層に含まれており、シルトや粘土などが挟まれているとその上を流れて台地の崖から顔を出し、湧水となります。今回は午前中、鶴瀬公民館で富士見市の地質の学習と、簡単な水位計を製作した後、午後をつかって台地から湧きだした湧水や井戸のあるお宅を訪れて水位や水質を測定しました。
 公民館のある台地から坂を下りて権平川沿いに歩き、横田邸に向かいました。裏山の崖にはレキ層が露出し、そこに湧泉が見られます。ここでは湧出量・水質・水温を測定しました。湧出量はビニール袋に湧水を一定時間集めて測ります。水質はpHと電気伝導度を体温計のような器具で測定しました。pHは酸性・アルカリ性を示す数値であり、電気伝導度は水中のイオンの総量を表す指数で汚れの目安となります。もう一カ所、氷川神社の下で湧水を調査した後、隣接する永瀬邸と加治邸の井戸で水位と水質を調査しました。水位はひもをつけたフィルムケースを水面に下ろして深さを測ります。この水位と氷川神社の湧水の水位を比較して同じ地下水流によるものか考えました。今日の体験を通して自宅の周辺で井戸や湧水を調べてみようと思った方が多かったようです。

(参加47名)

氷川神社の下で湧水の調査

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第320回 大岳鍾乳洞とその周辺−東京都あきる野市−
               1998年 7月12日

 2月に行われる企画会で要望が多い鍾乳洞ですが、案内者の関係でここ数年実現しませんでした。大岳鍾乳洞へはJR武蔵五日市駅より上養沢行きのバスで「大岳口」まで行きます。神社の脇の沢に沿った道を30分ほど歩いて鍾乳洞入り口に着きました。今回はさらに上に登って大滝も見学しました。途中、砂質頁岩の採石場で足を止めました。用途はコンクリートの骨材だそうですが、この業者は多摩川の河口から採石を始め、現在ではこんな上流域まできてしまったそうです。日本の経済成長を支えた建築ラッシュの側面を見た思いでした。
 鍾乳洞に入る前に、周囲の地質や鍾乳洞の説明してもらいました。鍾乳洞の語源・鍾乳石の成長にかかる時間・洞内の生物・洞内の気温・地下水の水質…分野にとらわれない内容で興味をひきました。洞中はわりと狭く、腰をかがめなくてはならない箇所も数多くありました。以前は鍾乳石や石筍がたくさんあったそうですが、順路からはあまり覗けませんでしたかなり盗掘にあってしまったということです。特徴的だったのは通路の壁に見られるノッチと呼ばれる地下水流の溶食の跡や、コウモリがねぐらとして利用している天井の凸凹でした。これらは今より地下水位が高かったころ、地下水流やその跳ね上りによってできものです。
 帰りは直接駅まで行かずに、五日市郷土資料館に立ち寄りました。自然史についての展示もあり、一見の価値がある資料館です。ここで一日のまとめをして解散しました。暑いときは鍾乳洞で涼もうと夏に企画したわけですが、梅雨寒の一日でした。

(参加52名)

大岳鍾乳洞入口の付近で

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