地学団体研究会埼玉支部

日曜地学ハイキングの記録


 第411回〜第420回(2007年8月〜2008年7月)



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第411回 下仁田町の地質名所を訪ねて  2007年 8月26日

 猛暑の続く関東平野をのがれて群馬・下仁田町へ出張の地学ハイキングを行った。時間ちょうどに案内者の小林さん・松岡さんのあいさつがあり、一日の予定〔青岩公園→跡倉衝上断層→跡倉礫岩→中央構造線?〕の見学順路の説明があった。
 青岩公園は手前の橋の架け替え工事中のため、対岸より見ながら御荷鉾緑色岩の説明を聞いた。徒歩20分程で青倉小学校東の跡倉衝上断層見学ポイントに着いた。ここではポイント脇の家の庭に説明の看板が立ててあり、当然のごとく皆で庭に入ってゆけることに下仁田の人々の暖かさを感じた。くわしい説明とともに資料プリントまでが、いつも用意されている。川におり、2〜3mのひざ丈ほどの川を渡り露頭にはり付く。25°位の右肩上がりの傾斜した断層が川底から続いている。下盤が御荷鉾緑色岩(ジュラ紀末、約1億5000万年前)、上盤が跡倉層(白亜紀、約8千数百万年前)である。断層面は大幅な破砕帯ではなく、1cm幅ほどの白い粘土層があり、下盤の御荷鉾緑色岩は薄くペラペラとなっていた。上盤の跡倉層には、目だった変化は見られなかった。次の見学は長源寺橋下の跡倉礫岩である。上の路上の橋から見る限り、埼玉の川原で見る礫は見られず、白っぽい大きな岩がうねうねと続いて川底に横たわって見える。川に下りて近づいて見ると、とても大きな岩体で大型トラック大の鏡餅を何個もつないでようだ。しかし、岩体に足を付けて上って見ると布地の柄のごとく見える様々小石が、全体に散らばって入っていた。花こう岩が多く、そのために全体が白っぽく見える。中に含まれる礫には円礫の花こう岩のほかに、角礫もあり、砂岩、泥岩、チャート、玄武岩質火山岩類、はんれい岩、ホルンフェルスなどがある。「このホルンフェルスの中にはザクロ石が小さいけれども入っています」と案内者が言っても、4人の参加女性は猛暑による疲れか、さほど動かない?。男性参加者は個々に探している。しばらくしてザクロ石=ガーネットと分かったとたん「それを早く言ってよー」と動く・・・!!。ここからさらに上流80mほどの所には、地層の逆転が見られる。跡倉層(白亜紀後期、約8千数百万年前)は、埼玉県の礫層とは全然ちがうものだった。朝が早かったので皆んな、お腹がペコペコ。やっと昼食となった。
 猛暑ではあったが、きれいな水の流れる川岸、木陰の下の岩に座って食べる時間は、のんびりとして、しばし都会の喧騒を忘れていた。ここの見学ポイントにも川の上の路上に、看板と資料が用意されていた。いよいよ最終ポイントまで、炎天下を歩くこと25分、途中天然水の飲めるところで、水の補給をして移動した。背丈ほどの草をかきわけて、川岸にいくと、埼玉でも目にする濃い草色のペラペラで、さわるとくずれる岩体が見えてきた。断層破砕帯で、御荷鉾緑色岩がぐずぐずになっているものであった。そして、その2〜3m先は、黒くなっている土?石、まさしく破砕帯そのものだった。しかし、対岸をみると、まったく違う灰白色のきれいなすべすべした平面な石が見えていた。道にもどり、橋を渡り対岸へ移動した。その石を観察すると、砂岩であった。下仁田層だ。御荷鉾緑色岩と接しているところを見ることができなかったが、断層で接しているという。この断層は大北野−岩山断層とよばれ、中央構造線の一部といわれている。ここの砂岩は級化構造があっきりと分かり、一番端は数mmの小石で、礫岩に近い。砂岩に入っている白い岩脈は方解石とのこと。また、ここの砂岩には化石が含まれている。主に二枚貝の化石で、とても固く取り出せるような状態ではない。ここで一日の地学ハイキングは終わった。下仁田は地学の見学のための看板、資料、ルートなどが整っており、地学のための町のようであった。参加者16名、猛暑の一日も無事に終わった。それが何よりであった。

{困ったメグ}(参加16名)

下仁田・南牧川で河原の礫
下合之瀬橋付近から岩山・御岳・大崩山方面を望む
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第412回 秋の伊豆ヶ岳を訪れる  2007年 10月21日

 秋晴れのハイキング日和の1日となった。西武線の正丸駅に集合して、伊豆ヶ岳をめざして登る。沢で赤色のチャートを、そして緑色岩を観察する。案内者の坂井さんが下見で採取した岩石をプレパラートにし、その顕微鏡写真(カラーで)を使っての説明に分かりやすかった。大蔵のマンガン鉱山から急な道となり、それを登りきるとゆるやかになる。チャートから砂岩の地質と変わったのである。女坂を登り伊豆ヶ岳の山頂へつく。天気が良く、御荷鉾山も見えるなど遠望がとても良かった。この後、正丸峠をへて、もとの正丸駅にむかう。途中で石灰岩からフズリナ化石をさがした。そこには「フズリナ化石をさがそう」という看板があるのには驚いた。以前の伊豆ヶ岳の地ハイでは、花桐にむかって下山したのであるが、道が荒れているので今回のコースにしたとのことであった。足が痛くならずに済んだのは良かった。参加者の中には、ヒラタケやヤマブシタケなどのきのこの観察をしている方もいた。
  この地域の地質では、砂岩を含む泥岩からはジュラ紀前期の放散虫化石が見つかっている。チャートはトリアス紀の放散虫化石、石灰岩は古生代ペルム紀のフズリナ化石が見つかり、泥岩より古い時代につくられたことがわかっている。したがって、泥岩の堆積する海底に、チャートと石灰岩の岩塊が混在したと考えられている。このように見て歩くと、山も違って見えることでしょう。       

{豊岡高校 松岡 喜久次}(参加者31名)

伊豆ヶ岳・大蔵の赤色チャート

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第413回 秋の荒川河原(寄居付近)をたずねて
               2007年 11月18日

 11月の地学ハイキングとしては天気が良く暖かい1日だった。小松さんの好意によりトン汁があり、比企団研の恒例?のたき火と焼き芋があり、満足の1日となった。
 化石採取ができるとあって、高校生が多く活気に溢れていた。先日の台風の影響で、河床の露頭が砂礫で埋まってしまったことと、荒川の水量がやや多くて、露頭が水面下となってしまった。案内者がこの砂礫の下には化石が採取できる露頭がありました、水面下には化石が採取できますと説明があった。運が悪いとあきらめかけていたところ、砂礫を掘って露頭を掘り始めた方がいたのであった。そして化石が見つかると、みんなでこぞって砂礫を掘り始めたのであった。出てくる出てくる。地学ハイキングの参加者のパワーはすごいものであった。二枚貝・巻き貝の他にシャコ?らしにものがみられた。昼食も取らずに続くように思えた。昼食後、橋屋さんから貝化石の説明と鑑定会となった。
 その後、大きな花こう岩の礫が目立つ礫岩の岩塊を観察した。硬く固結しているために、浸食にもたえて、河床の礫層から突出している。この岩塊の礫岩には、砂岩・チャートが含まれていない?ように見えるのに対して、岩塊のまわりの砂岩・礫岩には砂岩・チャートが含まれているので、違った環境でできたものであると思われた。
 午後3時を過ぎると風も強くなり、解散後に男衾駅についたときは風が冷たく感じられた。なお、河原にきた参加者の車の車輪が砂に埋もれてしまうというハプニングがありましたが、参加者一同で、石を運ぶ、車を押す、車をジャッキで持ち上げるなどと協力して車を救助できた。

{豊岡高校 松岡 喜久次}(参加者41名)

寄居・化石採集
寄居・トン汁

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第414回  秩父札所の地学めぐり(その1)
   秩父札所を巡り段丘をみる
 2007年 12月16日
      

 今回の地ハイは、秩父札所を巡りながら、その周辺の地形地質さらには札所の縁起との関連も考えてみようというものです。場所は、大野原駅から西武秩父駅にいたる秩父市街地と対岸の寺尾にある8ヶ所の札所です。
 午前中は、大野原駅の西方にある札所19番、さらに荒川の対岸にある札所20番・21番・22番を巡りました。まず、大野原駅で案内者小幡さんの説明を受けたあと、途中、段丘地形の話を聞きながら札所19番へと辿ります。この境内では、以前、荒川が流れていた証拠を示すポットホールが観察されます。荒川に架かる秩父橋を左岸へ渡り段丘崖の急坂を一気に上ると札所20番です。そこでの「乳水場」とその由来は、地質との関連で面白いお話でした。
 札所22番で昼食をとったあと、午後は、秩父公園橋を渡り再び荒川右岸へ向かいます。秩父の市街地に向かいなだらかに傾斜する橋からは、対岸の段丘・丘陵・山地の地形がよく観察できました。市街地に入ってからは、札所16番・17番・15番・13番の順で巡りました。どの札所もその造りや境内の雰囲気に特色があり興味がつきません。各札所の縁起が、周りの自然環境と深い結びつきがあることなどもわかりました。最後は、今は暗渠となっている地蔵川に沿って歩き、その源流である西武秩父駅で解散となりました。
 ところで、札所巡りというとどうしても御利益のことが気にかかるところですが、今回地ハイに参加した方々共通の御利益は、何といっても“一味かわった秩父の歴史と自然を知ったこと”と言えるかもしれません。残り26ヶ所の札所巡りがまた楽しみです。

{力田 正一 早稲田大学}(参加者:奇しくも秩父札所の数と同じ34名)

札所19番西方の段丘崖
秩父札所21番観音寺

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第415回  日曜地学ハイキングと湧水フォーラムin和光
              2008年 1月20日

 1月20日、寒さが身にしみる中、東上線和光駅には50名ほどの方々が集まった。今回の地ハイは、緑と湧水と流れの会との共催でおこなわれた。駅から北に向かって歩き、谷中川沿いの湧水を見てから、新倉ふるさと民家園で昔の暮らしがよみがえった。そこでは別のグループが餅つきをしており、そこに留まって参加したい思いをふりきり、先に進んだ。道路や住宅建設が進む中を歩き、斜面林などの自然がなくなってゆくのを残念に思うのであった。東上線を横切って、白子川沿いにみられる湧水にむかった。滝坂では、滝のように流れる湧水から命名された地名の坂であったが、現在ではコンクリートの坂道で水はない。次の熊野神社にある湧水は、江戸時代から有名な湧水で不動の滝として絵地図にもある。旧川越街道沿いの富澤湧水は、粘土層の上の礫層から湧き出ていることがわかる。湧水沿いにコンクリートで水路がつくられており、そこにあった民家の方が生活水として利用していたとのことであった。水路を流れる水に手をいれると、暖かかったのは当然のことであるが、自宅などの水道の水の冷たさにくらべて、利用したいものと思うのであった。大坂湧水群のところは、斜面林もふくめて、緑と湧水と流れの会が守っている場所である。カタクリなど植物もみられるとのことであった。
 午後は、白子コミュニティーセンターで湧水フォーラムとして、講演とパネルディスカッションをおこなった。最初に地団研の末永さんから「武蔵野台地末端の湧水」として、地質・地形と湧水について、埼玉環境科学国際センターの高橋さんから「湧水の環境」として河川や湧水の水質についての講演があった。また、高橋絹世さんから、湧水の周りの植物について報告があった。今回は、NPO法人 和光・緑と湧き水の会(申請中)法人設立記念フォーラムとして、共催の地ハイであり、多くの参加者で、内容も充実しており、とてもよかった。

{豊岡高校 松岡}(参加65名)

和光・大坂ふれあいの森予定地の見学
湧き水フォーラム

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第416回  冬の岩槻台地と貝塚、鉱物観察 2008年 3月16日

 岩槻は人形の街。駅前にあるからくり時計の、人形と音色に迎えられてスタートした。長禄元(1457)年に築城された岩槻城は、周辺の地形を利用して築かれている。岩槻駅から岩槻城址公園へ向かい、築城に際しどのような地形が選ばれ、どのように利用されたかを追っていった。途中、台地の幅が狭くなっている部分を通った。そこが城の入り口部分に当たることから、地形の巧みな利用を実感した。
 城址公園で説明を受けた後、公園内を通り真福寺貝塚をめざす。城址公園は非常に広く、きれいに整備されており、カワセミが飛来する水辺がある。丁度撮影に来ていた方が、過去に撮影したカワセミの写真を披露しており、思わず足を止めて見入ってしまった。
 真福寺貝塚は保護されているため、貝塚自体に触れることはできないものの、通路の周辺には小さな二枚貝の殻がたくさん見られた。しばし、縄文時代の人々の生活に思いを馳せる。ここで平社先生からの問いかけが。「なぜ、真福寺貝塚は周囲より若干高まったところにあるのか?」確かに真福寺貝塚の周囲は少し低くなっており、貝塚はちょっとした高まりに位置している。通常、台地の縁の比較的低いところ(過去の海岸線付近)で発見される貝塚が、高まりに存在する。この答えのない謎に、参加者の方々は思い思いの意見を述べていた。
 貝塚を後にして、一同は岩槻高校へと向かった。そこで東京軽石層(TP)中の鉱物を、双眼実体顕微鏡を使って観察した。また、参加者の方々が持ち寄った火山灰や鉱物標本などを観察している方もいた。双眼実体顕微鏡を通して見る様々な鉱物の世界に夢中になる余り、先生の「一旦こちらを向いて下さい」が聞こえないほど。「まるで高校生と同じですよ」と言われてしまった。大人が生徒戻った、そんな一日だった。

{川越高校 竹内 幸恵}(参加者31名)

岩槻城址
真福寺貝塚

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第417回  水子貝塚・難波田城と自然環境  2008年 4月20日

 4月20日、天気予報とは異なり、曇りで不安定な天気であったが、雨には降られずにできたのであった。東上線みずほ台駅からスタートして、台地をきざむ谷を横切るなどして歩く。台地上の縄文遺跡、湧泉と湧水が集まってできた河川を見ながら、水子貝塚をめざした。富士見市付近でも開発がすすみ、ローム層や礫層のみえる露頭がかろうじてあった。水子貝塚は10年以上前に地ハイで行ったが、植物が大きくなり雰囲気が大きく変わっていたのであった。資料館で15分ほどの紹介ビデオをみた後、学芸員から説明があり、参加者から多くの質問が寄せられていた。貝塚のはぎ取り標本、貝塚の貝といっしょに発掘された縄文人や犬の骨格などじっくりと見学ができた。ここは台地の端のつくられた住居である。
 そこから、低地を歩き、難波田城跡に向かう。ここでは、城郭などの跡が発掘され、そこに旧家が移築されていた。自然堤防とうい自然環境を利用し、戦国時代に開拓されたところである。この旧家の畳の部屋で昼食をとり、今年の地ハイの総会が行われた。今年の地ハイは、「荒川の自然と人間」という視点も加えた内容で、9月に秩父湖付近、11月に志木・宗岡付近で行うことが決まった。そのために、地団研の会員と地学の会の会員とがいっしょになって、下見や案内をすることになった。10数年前に富士見高校に勤務していたが、当時と比べて、今回の観察コースが整備されており、新鮮に感じたのであった。今回は、大井高校の生徒が4名ほど参加し、読売新聞に案内が掲載されたことで、それにより7名も参加があった。

{大宮南高校 松岡}(参加39名)

富士見・湧水の観察

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第418回 秩父札所の地学めぐり(その2)
  秩父札所を巡り盆地と山地の境をみる
 2008年 5月18日
        

  5月の地ハイは「第418回 秩父札所を巡り盆地と山地の境をみる」です。自然と人との関わりが歴史(札所)の中から再確認でき、また札所がどんな場所に建てられているか?興味があります。案内は、前回の札所の地質巡検に続き小幡喜一さん(熊谷高校)です。この札所を巡る地ハイは、前回も好評で、今回も歩く距離が13.5kmと長いのにもかかわらず、初めて巡検に参加という方もちらほら見受けられました。
 1番・誦経山四萬部寺へ向かう途中、タマネギ状の風化構造を観察しました。その後、坂道を登り、小高い高篠山の中腹にある、2番・大棚山真福寺で昼食をとりました。中腹にひらけた平坦地があるのに驚きました。この地形をつくるのに結晶片岩の水平な片理の発達が影響しているということでした。
 昼食後は下り道です。大棚川に降りて国会議事堂にも使われているという、りっぱな「蛇紋岩」を採取しました。弁天橋付近で砂利で埋まって見ることができない秩父盆地の境(苅米断層)の説明を受けました。4番・高谷山金昌寺では、酒呑地蔵が誰に似ているとか、で笑いをさそわれました。また不整合はないはずなのに蛇紋岩の上に角レキ岩層が不整合に見える場所があり、秩父盆地団研の岡野さんも興味を持った様子でした。3番・岩本山常泉寺では、砂岩ノジュールのかたちから信仰の対象になる−その名も「子持ち石」−古人の想像力のたくましさに感心しました。また、「長命水」という湧水があります。湧水がお寺などで霊験あらたかとかで、ありがたがれるのも、きれいな水を得ることが難しかった時代の反映であるという話しも、水道に慣れた生活を反省させられます。
 山道を登り、聖地公園を通り、朝に見た秩父用水路を渡り18番・白道山神門寺へ向かいます。周囲より小高いのは中州跡に建てられた寺ということです。「中州跡の高まり」が意外で新鮮で、あちこちにこのようなところがあるのではないかと思いました。帰路段丘崖沿いに湧く「妙見七ツ井戸」を観察しながら解散場所である秩父駅に向かいました。
 追記 当日は、秩父鉄道のイベント期間にあたり集合場所の和銅黒谷駅と解散場所の秩父駅のスタンプを押すことで記念品をいただくことができました。

{妻沼高校 久保田郁夫}(参加者34名)

和銅黒谷駅前にて説明
金昌寺の石仏群

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第419回 城ヶ島の自然と三崎層の観察 2008年 6月8日

 6月の地学ハイキングは埼玉を離れて、神奈川県の三浦半島の先端にある城ヶ島を訪れました。案内は東京農業大学の猪俣道也さんです。
 今回は地団研・神奈川支部との共催だったのですが、集合場所の京急線の三崎口駅には、ちょうど東京支部の地学ハイキングも集合していて、埼玉・神奈川・東京の地学ハイキングが一同に会すということになりました。
 雨の中、バスに揺られてバス終点の城ヶ島バス停まで行き、そこから観察が始まりました。何軒かの土産物屋さんの間を通り海岸へ出ると、眼下に見事な露頭が海岸いっぱいに広がっています。ここは城ヶ島の西側に当たる場所で、地層は新第三系の三浦層群の三崎層です。地層自体は明るい色の火山灰層と黒っぽい色の火山砕屑物を主体としたもので、大小様々な断層がそんな地層を切っているのが観察できました。説明によればここは背斜構造の一部を見ているとのことで、堆積構造に注意しながら地層の走向と傾斜を頭の中に入れました。また、ヤッコカンザシ(環形動物の一種)や穿孔貝の生息跡から関東大地震のときの隆起の大きさを見ることができました。
 さらに海岸を歩きながら、どうしてこんなものができたのだろうというような層間異常の堆積構造や、数種類の生痕、生物攪乱、グレーディングなど興味深い堆積構造をたくさん観察し、午前の観察が終わりました。そのころになると、雨はいつの間にか止み、日差しが戻ってきました。
 昼食後も、海岸の観察は続きます。火山豆石、いくつもの小断層、クロスラミナや火炎構造やグレーディングなどの堆積構造、生痕、そして現生のヤッコカンザシや穿孔貝、ポットホール…。興味深いものたちが次々と現れてきました。なかでも火山砕屑物をマトリックスにして明るい色の凝灰岩が同時レキとして入り込んでいる不思議な構造は想像力を刺激します。
 「馬の背」とよばれる浸食された海食洞で記念撮影。これで岩石海岸の観察は終了。 馬の背からは断崖の上の歩道にあがり、彼方に見える崖を観察しました。新第三紀の岩石の地層の上に第四系のロームが不整合の関係で乗っている様子が植生の違いによってわかるというのです。また、展望台の上から遠景を眺めたのですが、残念ながら透明度が悪く、「ここには○○があるはず…」という説明だけになってしまい、実際に見ることはできませんでした。
 最後の観察はコンボリュートラミナでした。なかなか見られない構造の上に逆転層となっているおまけ付きです。
 最初は雨でどうなるかと思った城ヶ島の観察でしたが、最後には天気も回復して、暑いくらいでした。帰りのバス停では再び東京支部の地学ハイキングと一緒になり、超満員のバスに揺られ、三崎口駅に戻りました。見るものの多い一日でした。

{児玉高校 栗原}(参加者29名)

三崎層の観察
馬の背の洞門で

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第420回  盛夏の越生町をたずねて 2008年 7月20日

 「初夏の越生町をたずねて」−黒山駒ヶ岳付近の地層観察と放散虫からみた越生のおいたち− のテーマで、この春に刊行された町史「越生の自然−大地のおいたち(地質分野)」にもとづき、地元の方々の参加も募り行われました。
 9時過ぎ、越生駅をバスにて出発。梅ノ久保集落にある石戸橋バス停で下車。黒山駒ヶ岳への山道をたどる。横吹峠付近では「御荷鉾緑色岩類」の玄武岩質火砕岩と溶岩が見られる。御荷鉾衝上断層(断層面は見られない)を経て、「秩父帯」のチャート、砂岩、泥岩などを観察する。黒山駒ヶ岳山頂付近は、秩父帯の珪質凝灰岩である。山頂をすこし下ったところに分布する層状チャートからの「放散虫化石」探しにしばし時間をとり、ここで昼食。下山し、再び 石戸橋バス停からバスに乗車し、午後の部が行われる越生町公民館へ。
 炎暑の山道とくらべ公民館の冷房の何と快適なことか。この快適が炎暑につながっていることとは知りながらも・・・。まずは松岡会員の放散虫化石の解説。越生町から産出するチャートからはジュラ紀の前期、泥岩からはジュラ紀の中期の放散虫が見いだされ、岩石の年代決定にきわめて有効であるとの説明。つづいて鈴木会員からは龍ヶ谷のフズリナ化石の解説。フズリナ化石をふくむ石灰岩と周囲をとりかこむ泥岩は、約1億年近くつくられた年代が異なる。なぜか? プレート説での解釈などを説明。最後に保科会員より、「越生町の自然」で用いた図版や写真をもちいての”越生町の大地のおいたち”の解説がありました。途中の休憩時間には実際の放散虫、フズリナのプレパラートを顕微鏡で見るコーナーもあり、好評でした。15時終了。

{浦和東高校 松井}(参加者29名)

越生公民館で

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