地学団体研究会埼玉支部

日曜地学ハイキングの記録


 第191回〜第200回(1985年9月〜1986年8月)


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第191回 奥武蔵山地子の権現をたずねて 1985年9月15日

 あいにくの雨となりましたが、集合場所の西吾野駅には案内者・係以外にも10人以上の方が集まっていたので決行しました。当日のコースは、堀口万吉会員と案内者の竹内敏晴さんが1982年に埼玉大学教養部紀要にまとめられた「関東山地東部高麗川上流地域の地質と構造」の見学会で、パンフレットには、論文の一部がコピーされていました。
 高麗川を遡り南川から子ノ権現に向かい、最初に見た沢底の地層はぐずぐずになった断層破砕帯でした。次の花桐入口では、石灰岩中から化石が見つかることがあるというので、濡れた岩の表面をよく観察しました。ウミユリの化石を発見した人もいました。さらに沢を登り、下久通(しもくずう)礫岩の石灰岩礫の中からと化石を見つけました。ここではフズリナが採集されているそうです。「くずう」というと栃木県の葛生を思い出しますが、石灰岩と関係があるのでしょうか。このあたりの石灰岩は緑色や赤色の塩基性火山岩・凝灰岩にともなっているようです。
 薪付近には砂岩が多く見られ、駐車場手前の道路脇には層状チャートが露出していました。子ノ権現の高まりは、どうやらこのチャートでできているようです。駐車場からは西吾野方面の山々が見えました。天気が良ければ、関東平野まで見晴らすことができるそうです。
 下りは、柿の木峠から小床(こいか)の集落を経て、西吾野駅に戻りました。集落手前には緻密な塩基性溶岩が露出していました。

{小幡喜一}(参加者15名)

パンフの表紙

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第192回 荒川中流 花園町をたずねて 1985年10月20日

 秩父鉄道「小前田駅」に集合し、荒川の川岸を花園橋上流の青岩礫岩まで歩きました。今回の案内者は、この地域の研究を進めている比企丘陵団体研究グループ若手の小沢さんと間室さんでした。
 初めの露頭は貝殻淵の対岸で、化石を多くふくむ小園層、薄い亜炭層も見られ、浅海から海岸平野の堆積物です。以前は砂利の河原が広がっていたところですが、砂利採取などで10年ほど前から地層が露出し、観察ができるようになったそうです。ここから青岩礫岩までは、地層をよく見て小園層と荒川層の境目をさがしてくださいというので、係はひやひやでした。参加者は戸惑いながら地層を観察していきました。途中から砂岩泥岩互層になったので、「その辺からが荒川層なのですか。」という意見が一致しました。地ハイは、講習会ではない、みんなで見て確かめようということです。
 最後の青岩礫岩では、緑色の結晶片岩の大きな礫でできているのですが、「どうしてこんな地層ができたのか考えてみましょう。」。「結晶片岩が見られるのはどこだろう。」「外秩父山地に結晶片岩はあるけど、ちょっと離れた場所だね。」等々、オープンエンドの地ハイでした。
 みんなの目で見て考えようという、日曜巡検会が始まった当時の視点を若者に教えてもらったような地ハイでした。

{小幡喜一}(参加者28名)

化石を含む小園層の観察
青岩礫岩で記念撮影

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第193回 武蔵嵐山の史跡,変成岩と田黒泥炭層 1985年11月19日

 ここ武蔵嵐山付近の地ハイは久しぶりだそうである。「日曜の地学」には載っていないコースで、旧版の本を頼りにした。以前、ここで地ハイを実施したときのパンフレットを小幡さんに頼んで送ってもらったところ、第16回のものであった。それを見て驚いたのは、変成作用など英訳が多くあったこと、これは当時の地ハイの対象者が研究者・教師だったので当然と思われた。
 下見は午後に2回程行き、1回目は田黒の泥炭層があるかどうか調べに行った。本にかいてあるところの露頭は、わずかに残っていたものの泥炭層はなく、谷を奥に入ったところに新しいくずれがあり、川底の結晶片岩の上に不整合にのっていた。この泥炭を少し取って帰り、花粉の抽出を試みた。花粉をみるのは初めてで、苦労した反面、勉強になった。プレパラートの作成のため、ゼラチンとグリセリンをまぜたが、加熱しすぎたためか気泡が入り失敗。そして、花粉の写真をとることにした。これには偏光顕微鏡BH−2の3眼(オリンパス)があるので楽だった。花粉の化石は肉眼ではわからないので、花粉の写真を参加者一人に1〜2枚程度のおみやげにと思って、たくさん焼き増しをした。
 当日は参加者30名、天気は予報にあたらずハイキング日和。菅谷館跡をみたあと武蔵嵐山へ。ここでは紅れん片岩が見られ、採取もでき、長瀞よりいいのではないかと思う。午後は田黒泥炭層の見学後、いつもは解散となるのだが、今回は菅谷中の先生が参加しており、中学校に寄ってくれ、校長にも許可をとってあるということで30分程まとめに使わせていただいた。菅谷中の先生は、地元の小中学校へ郵送したハガキをみて参加され、専攻は物理だが、地元の自然を勉強し始めたところであった。そこで「地と科」12、13、14号と3冊も買ってもらった。今回はいい一日だった。

{松岡喜久次}(参加者 30名)

川底の田黒泥炭層を観察
武蔵嵐山で記念撮影

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第194回 上尾・桶川の台地をたずねて 1985年12月15日

 12月とはいえ穏やかに晴れたハイキング日和でした。黒須さんの案内で、大宮台地北西部の小さな谷津、すなわち台地に入り込んだ谷にそって、藤波、小谷津、中分と歩き、台地をつくる地層を観察しました。
 藤波の最初の露頭では地層を観察し、特徴によって層区分を行い、地質柱状図を描きました。台地を覆うローム層は最上部の赤茶色をした立川ローム層で、その下に暗色帯をはさんで黄色っぽい武蔵野ローム層がありその下部には点々とやや白っぽく、指でつまむとジャリジャリした感じの東京軽石層がありました。これらの地層はどこの露頭でもほぼ同じように見られました。
 藤波の2つ目の露頭ではローム層の下に礫層(砂利の地層)が見られました。礫の円磨度や礫種を観察して、この礫層ができた当時のようすを考えてみました。円磨度は丸い円礫だったので、川原のようだと考えられます。礫種は荒川の多い砂岩やチャートは少なく、利根川に多い安山岩が多くありました。礫層が堆積しところは、利根川が現在の荒川の流路に流れ込んでいたのでしょうか。
 小谷津と中分では、ローム層の下に硬砂層やぬか砂層がありました。これらは大宮台地に広がる特徴的な地層で、下末吉期(約12.5万年前)の海岸付近の浅海から海岸平野につもったものだと考えられているそうです。

{小幡喜一}(参加者 26名)

中分の露頭で

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第195回 武里団地の地盤沈下 1986年1月20日

 春日部高校の平社さんの案内で、春日部市南部の武里団地に地盤沈下の状況を観察し、地質との関係を調べました。
 埼玉県東部は昔は米どころとして知られていましたが、近年は住宅や工場が密集する地域に大きく変貌しました。そのために、大量に地下水を汲み上げる一方で、舗装や排水により地下に浸透する水が減り、水分を含む粘土層が収縮して地盤沈下を生じました。沈下量の大きいところでは浸水したり、水道管や下水管、ガス管が破損する被害も出ました。
 武里団地は、1966(昭和41)年に入居の始まった6200戸のマンモス団地で、春日部市南部の主に水田だったところに建てられました。ここでは、入居間もないころから地盤沈下がおこりはじめました。建物は地下の安定した地層に杭を打って建てられたので、元の高さを維持しています。地盤が沈下した分、地面と建物との高さのずれができて、建物が浮き上がったようになってきました。仕方がないので、繰り返し入り口に階段を付け足して調整が行われています。
 地盤沈下の様子を観察したあと、グループに分かれて追加された階段の段数を調べて、地図に書き込んでみました。また、建物のヒビ割れのスケッチ、その他気づいたことも記録しました。
 午後は春日部高校に移動し、団地全体の階段の段数を1枚の地図にまとめてみました。各班で気づいたことの発表の後、“等段数線(等沈下量線)”を描き、地下地質と比較検討してみました。
 この付近は標高10m弱で、沖積層の厚さが40〜50mあります。沖積層は海抜−10mよりも深いところは一様に貝殻を含むシルト(泥)があり、縄文海進の海成層だと考えられます。それよりも上部は場所によって砂や粘土になっていて、自然堤防や後背湿地といった 河川堆積物のようです。この自然堤防の砂の地層が厚いところで沈下量が少なく、後背湿地の粘土のところでは大きく沈下していることが推定されました。建物のヒビ割れは不当沈下によるゆがみを表しているようでした。
 自然環境と開発について、参加者みんなで調べて考えることができました。

{小幡喜一}(参加者 25名)

地盤沈下で抜け上がった建物を観察
付け足された階段を調べる

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第196回 越生町龍ヶ谷をたずねて 1986年3月16日

 越生駅から黒山行きのバスに乗り、上大満(かみだいま)バス停から龍ヶ谷川に沿って歩きました。暖温帯の照葉樹林を見ながら、川岸にみられる秩父中・古生層を観察しました。
 上原で枕状溶岩・粗粒玄武岩、地形(ちぎょう)で緑色岩とチャートを観察し、途中、龍穏寺を見学し、入(いり)の粘板岩、滝不動ではオリストリスを観察しました。オリストリスというのは、ギリシャ語の「オリスタイノ(すべる)」「リス(石)」の合成語で、年代の異なる岩塊がすべり込んでいるというようなものです。ここでは恐らくジュラ紀の凝灰岩を含む粘板岩中に大小さまざまなチャート(トリアス紀?)や緑色岩・石灰岩(ペルム紀)礫が入っていました。
 最後は薄暗い山の斜面を登り、石灰岩からペルム紀のフズリナ類であるヤベイナや石灰藻類のミチアを探しました。立派な化石を見つけた人もいました。
 今回は案内予定者の都合が悪くなり、論文や6年前の地ハイパンフを送っていただいて、地ハイ係の小幡が化石図鑑や教科書をしらべ、下見の調査を行いパンフを作って、予定どおりに実施することができました。当日は地元の大野会員に来ていただいて本当に助かりました。

{小幡喜一}(参加者 30名)

パンフの表紙

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第197回 桜舞う高麗の里をたずねて 1986年4月20日

 西武池袋線「高麗(こま)」駅には、小雨模様にもかかわらず20名が集まりました。これだけの人数になったので、傘をさして歩きはじめました。
 最初の見学ポイントは駅の北西にある石器時代住居跡、1929(昭和4)年に県内ではじめて発見された縄文時代の住居跡です。
 次に巾着田にむかいに川岸の崖に露出した飯能礫層を観察しました。シルト層の上位に厚い礫層があります。足もとの川原の礫よりも角ばっていて、崖下のようなところに堆積したようです。高岡橋から獅子岩橋までの高麗川を歩き、1967(昭和42)年に発見された、白亜紀の地層を観察しました。この白亜紀層の上には不整合で鮮新−更新統の飯能礫層が重なり、さらに段丘礫層が不整合で重なっていました(右図)。そして、聖天院で昼休みをとりました。
 午後は、マンガン鉱の採掘跡に行き、表面がまっ黒に酸化した鉱石を割り、きれいなピンクのバラ輝石やこげ茶色のベメント石などをみんな夢中で採集しました。高麗神社から高麗川駅まで歩き解散になりました。

{小幡喜一}(参加者 (雨天)20名)

パンフ中の露頭スケッチ

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第198回 新緑の中津峡をたずねて 1986年5月18日

  5月18日。5時起床、ハンマー、弁当などのはいったリュックをかついで家を出る。快晴。日中は人通りの多い通りも全く静かで、すがすがしい空気を吸い、地下鉄に乗る。
 きょうの地学ハイクは中津峡だ。6時半の池袋発秩父行の電車に乗る。ガラガラの電車内の乗客はほとんどハイキングスタイル、それも中年以上の年配者が多い。途中、顔なじみの青年、190回のとき同室だった松本さんや横田さんらに会う。
 集会場所の三峰口駅には、小幡さんらが地ハイの旗をもって持っていてくださった。やれやれとのんびりしていると、長いバスの行列に並ぶようにとの指示。寿司詰めのバスで大滝役場へ。さらに、中津川行の小型バスに乗換える。
 こんどは、ほとんど我々のグループだけだ小幡さんが、バスのマイクを借り、説明をはじめた。「今、バスは村の中心を通っています。」と言われても、狭い段々畑とわずかな民家が川に沿って点々とあるばかりだ。「この付近が開けているのは白泰断層と関係がある。中津峡は硬い中古生界の砂岩やチャートなのに、このあたりは軟らかい中生界の頁岩でできている。このために、河岸段丘ができたり崖すいが生じて開けている。」との話。見渡せど断層などどこにも見当たらない。しかし、塩沢部落をすぎると、バスの窓から川底が見え道路の路肩も見えない。怖いくらい垂直に切立った断崖になってきた。チャートらしい岩石が連なって、中津川渓谷の美観を演出している。やっぱり今までの地質とは異なる。1時間のバス見学が終わり、終点の中津川に着く。「この付近は地下から貫入してきた石英せん緑岩で、風化し易い。」と説明される。
 地元の大滝中の先生だった小林さんの挨拶があって、歩き始める。石英せん緑岩の露頭を叩き、バスで来た道を戻る。小林さんは、「川岸にみられるミズナラは、コナラに比べて葉柄が短く、掌状には葉がつき、やや冷たい場所に多い。」と、植物の話もされる。出合のトンネル付近では、貫入してきた石英せん緑岩によって熱変成を受けた岩石を見る。まっ黒な硬く重い石がたくさん道に落ちている。「ホルンフェルスだ。」と、教えて下さる。本か何かで名前だけは知っていたのだが手にとって見るのは初めてだ。
 河原で弁当をパクつきながらも、周囲の石ころをハンマーで叩く。「チャートだ。」「砂岩だ。」「石英せん緑岩だ。」と加藤さんが教えて下さる。参加者名簿に記入し、トンネルをくぐって神流川の河原に下りる。茶褐色の大きな礫の頭をハンマーで叩くと、割れ目からキラキラ好く黄鉄鉱が現れる。あれもこれも欲しい石ばかりで、ポリ袋はだんだんおもくなってくる。朝より重くなったリュックをかつぎ、石灰岩の大岩壁を右手に仰ぎながら、帰途についた。

{帰山公夫}(参加者 40名)

パンフの表紙

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第199回 多摩センター駅西方の地形と地質,貝化石 
               1986年6月22日

 地団研東京支部の川上さんと長田さんに案内をお願いして、多摩ニュータウンの造成地を見学しました。多摩センター駅周辺には新しいビルが建っていますが、しばらく歩くと広々とした造成地の中に道が延びていました。
 多摩ローム層中のゴマ塩軽石層、三ッ組軽石層、ニセ三ッ組軽石層を観察し、多摩丘陵の平坦面をつくっている御殿峠礫層と、その中の残丘を観察しました。さらに、それらの基盤をなす平山砂岩上部層と三沢泥岩層を観察し、その中に含まれる貝化石を採集しました。
 多摩丘陵をつくる地層が造成中の露頭で観察することができるのは、ほんのわずかな時間だけだと思います。それを精力的に調査した成果をご案内いただき、多摩ローム層中の軽石のサンプルや貝化石もたくさん採集することができました。ほんとうにありがとうございました。

{小幡喜一}(参加者 21名)

造成地内の道を歩く
貝化石層の観察・採集

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200回記念 秩父盆地の化石採集と川遊び  1986年8月17日
−92人、化石採集とスイカ割りを楽しむ−

 今回、200 回記念の日曜地学ハイキングの案内者という大役を仰せつかりました。といっても、実際は豊岡高の小幡さんに教えていただいた通りに参加者の皆さんの先導をした、というだけだったようにも思います。
 さて、200 回記念ということで、化石がザクザクとれて、川遊びができる、ということで選ばれたのが、秩父鉄道(将来、SLが走る、といううわさがありますが…)武州日野駅付近の荒川でした。7月末に下見しましたが、アクシデントはあるもの、8月4日の台風10号の大雨で、渡るはずの橋が流されてしまいました。しかし、川の中に入り、水遊びもするのだから・・・大丈夫、としいうことにまとまりました。
 やっと、しおりができあがり(体裁の割りに内容が貧弱なのは筆者の責任です)、いよいよ当日です。途中、雨が降りましたが、まあまあのお天気だったと思います。武州日野駅前には総勢92人の方が集まりました。人数が多いので打ち合わせておいた通り2班に分け、小生は荒川橋で川原に降りるコースを担当しました。荒川橋は、すぐ上流側に、もう一本橋が架かり、現在の対面通行から、上り・下りそれぞれ専用の二本の橋への工事が進行中で地ハイ当日は、完成した新橋への取付道路の工事中でした。狭い橋の上、車に気をつかいながら、降りる道である。「S園」のわきを通ろうとしたら、『私道につき・・・』の看板。御主人さんに頼み、通していただきましたが・・。
 荒川橋の下は奈倉層です。化石はたいへん少なく、収穫はほとんどありませんでした。時聞に追われるようにして鷺ノ巣層のレキ岩の中へ。荒川橋よりも下流側は、とにかくレキ岩だらけです。化石らしいものはほとんど入っていませんから、つまらないと思えばつまらないのでしょうが、ポコボコと入っている人頭大のレキをみると、当時の堆積環境の様子が目に浮かぶようで、体中ワクワクしてきます。しかし、この興奮を参加者の方々に伝えられたかな…と反省しています。とにかくレキ岩だけの中を、下流側に歩きました。昼食時間のこともあったので少し急ぎましたが、ちょっと急ぎすぎたようでした。
 小幡さん率いる班は、化石がザクザクとれたということでみんなが大満足の様子。そこで、上流からの班は昼食もとらずに化石採集へと。主にドシニアでしたが、場所によっては形のよいものがたくさんとれ、皆さん大満足でした。川遊びのできる場所ということで設定しただけあって、近くには家族連れなどが多かったのですが、またそのため、水キリ(石をなげて、水面を何回はねるかをみる)遊びなどはあまりできませんでした。また、泳いだ人もいませんでしたが、楽しかったのはスイカわりでした。川につけ、冷やしておいた5個のスイカ、小幡さんが2000円で買ってきたのですから驚きでした。ジャンケンで始めたのですが、はじめの6人は、みんなハズレ。中には、川に入りそうなものもいるし……、ということで業を煮やしたMさんが、「まっすぐ前に歩け」と教えてるほどでした(ただし、信じないで別の所をたたこうとしましたが)。しかし、われ始めるとアっと、いう間に5個われてしまいました。
 最後は、川のレキを種類ごとに分類して、レキが教えてくれることについて学んだり、瀬や淵といった川の地形の学習をしました。電車の時間が迫ってきたので、帰路につきましたが、皆さん、最後まで貝化石の採集に熱中していました。『地ハイ手帳』も配られ、貝化石もたっぶり、スイカの味も楽しめた、楽しい地学ハイキングでした。

{加藤定男}(参加者92名)

化石を見つけよう
川原で食事
スイカ割り
たくさんのスイカ

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200回記念特別 地質調査を学ぶ会  1986年8月23日 〜24日
  −両神村白沢付近−

 8月23日、午前10時10分、秩父鉄道三峰口駅に着いた。ホームに降りると、もうほとんどの人が集まっていて、ぼくと同年代の生がいるかと思えば、“実年”、“老人”と言われるような人もいて、また、女性の参加者も5人程来ていたので、正に「老若男女」だった。出席確認の時、みんなの顔をじっくり見たが、どの人も、「私は地質調査ができます。」と言わんばかりの感じがして、クリノメーターも使えない僕は、ちょっと心細くなった。
 そして開会式、調査する沢の説明、諸注意などがあり、いよいよ各斑に分れて出発となった。くねくね曲がった狭い道を15分位行くと、目的地に着いた。どうなる事かと思いつつ、沢に入った。最初に地団研の人がクリノメーターの使い方を教えてくれた。が、よく分らないままだったのは悔いが残る。沢は幅が狭く、その上に杉の倒木に悩まされ、かなりの難所だった。しかし、地団研の人は、手慣れたもので、いつの間にか差をつけられてしまう。僕はやっとこさ後から着いていった。沢では、露頭を観察して地層の特徴や走行・傾斜を記録したが、地団研の人は、この作業もすばやくこなしてしまうのには参った。やがて、チャートが露出(?)している所まで登りつめたので、そこで終りにしたが、この辺りは、倒木に加えて、やぶと蚊がひどくてもう調査どころではなかった。沢を下ると、民家のおばさんがお茶を出してくれ、ヘトヘトになっていた僕は、生き返った気がした。
 そして車に戻り、民宿へ行ったが、集合時間4時を30分以上過ぎても、民宿にはどの班も戻っておらず、時間のルーズさにあ然とした。取りあえず、先に風呂に入らせてもらい、その後まとめをした。自分の班がまとめ終わる頃、他の班が帰ってきたので、全体のまとめまでかなり余裕があった。その間、他の班のまとめの光景を見ていたが、まじめにやっている人もいれば、班と班の問をうろうろして、口出しをして“ひんしゅく”を買っていた人もいて、ちょっと面白かった。
 予定の時刻をかなり過ぎて全体のまとめに入った。模造紙にかいた各班のまとめを並べると、見事に地層が一致した。こうなるのが当たり前なのかも知れないが、ぼくにとっては大変な驚きであった。全体のまとめが終わったのは9時を回っていて、その後は、地団研の名物(恐怖)と言われる“大コンパ”に突人した。最初の方だけ参加して寝てしまったが、大人(高校生も少数いたような気もするが)の方は、飲めや歌えやで夜中の3時頃まで騒ぎ、言葉も出なかった。
 次の日は、仕上げの段階で、柱状図と地質図を作成したが、ここでも一生懸命やっている人と動き回っている人がいた気がする。地質図が完成したところで、終りの会が始まった。最後に終了証をも らった時には、及ばずながら参加できた事の喜び、一つの物をやり終えた充実感を覚えた。
 そして家路へと、まあちよっと個条書きっぼくなってしまいましたが、2日間の行動を逐一チェックしながら、それぞれその時の感想を少しずつ入れてみました。色々な事があった訳ですが、ここで 印象に残ったことを2つばかり書いてみようと思います。
 最初に奥秩父の自然破壊には胸が痛みました。特に沢を登っている時の、あの嵐のような杉の倒木。間伐した杉をそのまま沢に倒すのは、どう考えても悪いです。見ばえが良くないし、地質調査をやる人にとっては、大敵といっても過言ではありません。それに杉ばかり植林していたら、完全に自然のバランスは崩れてしまいます。本当に何とかならないのかとちょっと考えさせられました。
 それから、参加者、特に地団研の方の熱意に奮い立たされました。自然を目で見、確かめ、少しでも自然のナゾを解こうとする。こんな姿勢が、地学に大切なんだと思いました。
 最後に、これからも、できれば頻繁に、地学ハイキングをやって欲しいし、今回のような、少し内容が高度な企画もすばらしいと思います。今回は、参加できて本当に良かったです。どうもありがとうございました。

{橋本一成:豊岡高校地学研究同好会}(参加者35名)

沢を登り本格的な地質調査
地質図づくりに挑戦

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