「春ひらく武蔵野の雑木林に風かおり 緑萌えたち・・・」これは、川越市内のある中学校の校歌の一節です。以前生徒に出身中学の校歌を書いてもらったところ川越市内の学校の校歌には秩父の山々、富士、そしてやはり武蔵野が多く歌われていました。
「今の武蔵野は林である。林は実に今の武蔵野の特色といっても宜い。」と書いたのは国木田独歩ですが、きれいに人の手が入った雑木林の四季の変化は本当にすばらしい景観です。川越市南部から所沢、大井町、三芳町にかけての武蔵野台地には今でも雑木林が多く残され、緑の回廊をつくっています。
もともと台地中央部の原野は水を得ることが難しく開発が遅れ、長く秣場として利用されていました。1694年川越藩主柳沢吉保は、曽根権太夫に命じて新田開発をはじめました。間口73m、奥行680mの短冊状の地割に241戸が入植し、上富、中富、下富の新しい村がうまれました。これが有名な三富新田の開拓です。
開拓農民たちには赤土との格闘が待っていました。まず、この地割の中を屋敷、畑、雑木林の順に規則正しく区切りました。雑木林は、「ヤマ」とよばれ、防風林や薪炭林、堆肥になる落ち葉の供給源となりました。旧正月前には家族総出で落ち葉を集める「クズ掃き」です。栄養分の少ない赤土(ローム層)に堆肥を施して耕し、あわ・ひえ、のちに麦・おかぼ・サツマイモなどの収穫量をあげていきました。
この雑木林は、コナラークヌギを主体にした落葉広葉樹の林です。植物遷移からみると、武蔵野台地の極相は照葉樹林ですので、放置された雑木林にはシラカシ・スダジイなどの照葉樹が成長してきてしまいます。このような低木はクズ掃きのために伐採され、またコナラはおよそ30年サイクルで切り倒されて若木に更新されてきました。このように300年間、農民の知恵によって維持されてきたのが武蔵野の雑木林なのです。
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