かわごえ歴史散歩
肥沃な川越の穀倉地帯
荒川沖積低地

そくほう2004年3月号

川越付近の地質図(埼玉県地質図より)
 川越は古くは「河越」とか「河肥」とかきました。地名の由来は、町に入るには川を越えなければならないこと、また川の肥えた土地のことです。
 川越台地の東から北にかけては、広大な沖積低地が広がっています。入間(いるま)川、越辺(おっぺ)川、荒川などが流れる水田地帯で、小江戸川越の財政を支えた米倉です。荒ぶる川を意味している埼玉の母なる川、荒川は寛永年間(1624〜)の瀬替えによって入間川の流れに導かれ、現在の場所を流れるようになりました。沖積低地の自然堤防上には新村が開かれていきましたが、合流点付近では洪水のたびに被害を重ねていました。
 知恵伊豆と呼ばれた松平伊豆守信綱は、1639年に川越城主になると、堤防の補強をするなどして治水に努め、水田の裏作に大麦を作ることすすめています。当時の豪商、榎本弥左衛門の「万之覚」に「慶安四卯の年(1651)頃より、田に大麦を川越にてまき初まり候。松平伊豆の守様おしえゆえ、川越永代の徳分なり」としるされています。現在では、水田の裏作としてキャベツやホウレンソウなどの近郊野菜に変わっています。
 市内久下戸(くげど)の氷川神社境内の石灯籠の碑文には、「寛保二年壬戊八月二日大水仔支社地深二尺村中浸軒者多」、と刻まれています。寛保2(1742)年の大洪水でこの神社をはじめ村中の家々が水没したというものです。21年後の1786年にこの石碑が建立されました。当時の土地の名主だった奥貫有山が記した「大水記」でも、「連夜の大雨で荒川の堤防が決壊したため村中が水浸しとなり、奥貫家では軒まで水位が上がったため、屋根を破って上に抜け出て助かった」とあります。繰り返しおこった洪水がこの肥沃な土地を形成していったわけです。
 曲流していた荒川や入間川は、明治末に大規模な改修が行われ現在の河道に変わり、氾濫が起こることもなくなりました。しかし、1923年の関東地震では川越でも軟弱な沖積低地に被害が集中し、芳野地区では、全513戸のうち全壊19戸をはじめ416戸に被害がでました。

入間川の流路(川越市芳野)
第4年社会科副読本
「市民のくらし」
(川越市)より
 

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