地学団体研究会埼玉支部

日曜地学ハイキングの記録


第521回~第530回 (2018年11月~2020年3月)


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第521回 秋の子の権現を訪ねて
     ― ジュラ紀の海溝をのぞく ―
  2018年11月17日

 第521回の地学ハイキングは、秋色に変わった外秩父山地にある「子の権現」を訪ねました。あいにくの曇り空で、鮮やかな紅葉というわけにはいかなかったのですが、1日、秋の低山で海の堆積物と昔の暮らしを想像しながら少し長いコースを歩きました。正丸駅からスタートし、石碑や道しるべなど、石で作られたものを見ながら子の権現を目指します。この地域で特徴的なのは石灰岩で作られた石造物です。一般的にはあまり石灰岩の地蔵や石碑は見ることがないのですが、このあたりでは石灰岩が身近にあることから、石材としてよく利用されていたことが判りました。そんな石灰岩の石造物に混じって安山岩で作られたものもあり、〝経済的に余裕があれば、安山岩を使い、余裕がなければ石灰岩が使われたのではないか〟という案内者の解説があります。 花桐から高麗川へ流れる沢の合流点付近では、石灰岩にできた小さな鍾乳洞を観察しました。水量が少なく、沢の側面にできた鍾乳洞の中まで入って見ることができました。この石灰岩からはペルム紀のフズリナが報告されているのですが、今回見つけた人はいなかったようです。このさらに上流では沢底に、石灰岩が礫として含まれている緑色岩が観察できました。サンゴ礁の火山島が連想される堆積物たちです。  天目指峠へ続く道から分かれ、子の権現へ続く急傾斜の細い道へ入ると、切り開いた道路の側面の所々に露頭が現れるようになりました。岩石の表面は風化していて、すぐになかなか正体は判らないのですが、砂岩、チャート、泥岩(頁岩)、緑色岩、石灰岩などが混在しているようです。今回の地ハイのサブタイトルでもある「ジュラ紀の海溝」の堆積物たちです。層状になったチャートもありました。 お昼が近づき、少し脚もきつくなってきたころ、「子の権現」に到着。スカイツリーが見えるかも…、と期待しましたが、透明度は悪く、東京の景色までは見ることができませんでした。またの機会としましょう。 足腰守護のご利益があるという子の権現・天龍寺のおかげ?で、気力・体力を取り戻し、午後はここから西吾野駅へ向けて下ります。山道はしっかりしていますが、かなりの急傾斜です。途中には「丁目石」という目印となる石造物が所々に置かれていました。これも石灰岩でできています。 小床の集落の近くの「静之神社」前では、きれいな層状チャートを観察しました。子の権現の近くの層状チャートとは少し顔つきが違うようです。最後の見ものは、国道299号線に出る少し前にあった「桃太郎の大岩」でした。関東山地研究グループによりそう命名されたこの巨岩、どんな形をしていたと思いますか?この巨岩が今後、この地域の奇岩として定着するかどうかは、まったく予測できません。

{本庄高校 栗原直樹}(参加者 25名)

 
石造物を観察

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第522回 秩父札所の地学めぐり その11
  水潜寺から破風山をこえ秩父盆地へ
   2018年12月16日

 札所シリーズ12回目にあたる今回は、秩父34番札所水潜寺を訪ね破風山をこえて秩父盆地へと歩いた。
 午前10時過ぎ皆野駅に集合。電車を降りると凍てつく寒さに体がこわばってくる。冬の秩父を体感する。そんな厳しい寒さにもかかわらず参加者は37名と、札所シリーズの人気のほどがうかがえる。
 皆野駅から町営バスで水潜寺に向かう。三十三観音の石仏が並ぶ参道の急坂を上り水潜寺境内に入る。小幡さんから観音堂の前で34番札所水潜寺の謂れをうかがい、しばらく思い思いに境内を散策。さらに、今は立ち入り禁止となっている「水潜りの岩屋」とよばれる石灰岩の鍾乳洞を遠目に見学し、札立峠に向かう対岸の巡礼道に入る。
  巡礼道は、互いにすれ違うのも難しい細い道が続く。登るにつれ層状チャート、泥岩、砂岩泥岩互層などと岩相が変化し、それに応じて道の傾斜にも違いが見られる。普段、山道を歩き慣れていないと結構きつい登り。途中、休憩を兼ねて生痕化石や激しく褶曲した砂岩泥岩互層の露頭を観察する。
 層状チャートの曲がりくねった急坂を登りきると、まもなく札立峠に到着。ここで昼食となる。昼食の時間を利用し、小幡さんがあらためて採集した生痕化石の解説をする。「教えてもらわないと何処が化石なのか全くわからないですね」と参加者。途中では、ゆっくり説明を聞ける場所もなかっただけに、ここぞとばかりに皆さん質問を浴びせかけていた。
  昼食後、破風山山頂へと向かう。標高627mの山頂は、周りにさえきる物がなく秩父山地や秩父盆地が大パノラマとなって見える。見晴らしの良い場所とあって、この日も、先客に子供連れの女性グループが食事をしている。山頂では、眼下に望む秩父盆地の段丘地形や太田条理遺跡、さらには周辺の山々のことなど、小幡さんの解説に耳を傾けながら、その風景を存分に楽しんだ。
  立ち去る際、先ほどのグループの方にご迷惑のお詫びに地ハイパンフをお渡しすると「こちらこそとても面白い話を伺うことができました」との返事。ホットする。  桜ケ谷の急な尾根道を下り、黄色に色づいた柚子の林の中を抜け車道に出る。最後の観察地点「桜ケ谷の不整合」に。古秩父湾が発生した頃のことを想像しながらじっくり観察した。
  常連の方の中には、厳しい寒さと急な山道に苦労をされた方もおられたが、参加者の協力もあり無事皆野駅に到着し解散となった。

{埼玉支部 力田正一}(参加者 37名)

 
巡礼道脇の砂岩泥岩互層
破風山山頂にて
桜ヶ谷で不整合露頭を観察

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第523回 狭山丘陵で『チバニアン』の地層をみる
                     2019年 3月17日

 気温は、やや低めの肌寒さを感じましたが、気持ちよく晴れ渡った天候となりました。西武狭山線下山口駅前には、予想を上回る72名もの参加者が集まり、パンフレットが足りなくなってしまい、急遽、不足分をコピーで作成し、配布する事態となりました。駅前の空き地を使わせてもらい,しっかりストレッチを行い、所沢高校の正田さんから今日の日程、コースの説明を聞いて、出発しました。
 今日は、狭山丘陵の東部から所沢高校までを歩き、更新世中期(約77万年前から12.6万年前まで)の地層を観察します。更新世中期という時代は「チバニアン」と呼ばれるようになる予定です。また、午後は所沢高校で地磁気についてのお話を聞き、火山灰の観察を行います。
 狭山丘陵を作っている芋窪礫層を観察した後、今日の案内者の一人である正田さんが気に入って購入した正田ファームの露頭の観察を行いました。八王子黒雲母軽石層(HBP)さらに、その上のゴマシオI層、ゴマシオII層を観察しました。八王子黒雲母軽石層は、かつて秩父の尾田蒔丘陵の安立でも観察したのでとても親しみを感じました。続いて埼玉県狭山丘陵いきものふれあいの里センターを通過して、荒幡の富士で休憩しました。荒幡の富士からは、西武ドームのはるか向こうに、富士山の裾野や雪をいただいた丹沢の山々などを見渡すことができました。少し移動したドレミの丘公園からは、武甲山や雲取山など秩父の山々を見ることができました。所沢高校にむかいながら、狭山丘陵の縁を観察し、所沢高校わきの露頭では、時代的には、チバニアンに堆積した所沢礫層、その上位にのる関東ローム層を観察しました。崖の上の方にある東京軽石層まで、ほとんどの方が急な崖を登り,実物を観察しました。東京軽石層の年代が5万8千年前であることから、その上下の関東ローム層の堆積速度が下は0.92m/万年、上は0.93m/万年であることを計算で求めることができました。一年間では、約0.1㎜となり、現在でも、砂ぼこりがその位は積もるという説明に、なるほどと実感しました。
 所沢高校の地学室だけでは足らず、普通教室、屋上も借りて、昼食をとった後、午後はまず、正田さんに、狭山丘陵の成り立ちを説明してもらいました。となりのトトロに描かれた風景を教材に河岸段丘面について、わかりやすく話してもらいました。宮崎駿監督が地形など自然をよく理解し、作品に取り入れていることに驚きました。また、このような楽しい授業を受けられる所沢高校の生徒をうらやましく思いました。続いて久保田さんから古地磁気学習会として、今話題のチバニアンに関連して、地磁気の基本から、チバニアンの意義について、説明していただきました。マスコミでも取り上げられ、参加者の関心も高く、熱心な質疑応答が行われました。関東ローム層に含まれる鉱物粒子の観察は、参加者多数のため、顕微鏡ではなく、パワーポイントによる観察になりましたが、美しい結晶を見ることができました。天候にも恵まれ、多数の方に参加していただき、充実した巡検が実施できました。

{埼玉支部 関根栄一}(参加者 72名)

 
狭山丘陵の地層を観察
所沢高校地学室で古地磁気学習会

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第524回 越生の石と人々のくらし  2019年 4月21日

 越生町ではここ数年「四季の花と香りのまち」や「ハイキングのまち」をキャッチフレーズに、いたる所で案内板や標柱等が整備されている。また、“越生梅林”もさることながら、町の面積や人口に対して、神社や寺の数が多いことも特徴の1つである。日陰ではやや肌寒さを感じたものの、春の麗らかな陽光を浴び、絶好の地ハイ日和となった。以下が見学地である。
 越生駅-バス-梅園小学校前(この後は徒歩)梅園小学校正門の門柱(石灰岩の角礫が目立つ礫岩・基質は微粒のドロマイトが特徴的)-建康寺太子堂(緑色岩とチャートによる石垣)-越辺川沿いの水車跡見学(スクリュー式)-新月ケ瀬橋付近の河原で礫調査(石灰岩礫が極端に少ない)―梅園神社・昼食(石灰岩の石段に含まれるウミユリ化石・神社裏の秩父帯層状チャート)―岩清水観音堂(秩父帯チャート・御荷鉾緑色岩境界の衝上断層)―五大尊(石灰岩の石段に含まれるウミユリ化石)―法恩寺(山門脇:チャートによる石垣)
 大高取山クリッペの説明ではH氏の弁舌が冴えわたった。衝上断層や押かぶせ褶曲の存在は山脈の形成に他ならず、この山脈に吹きあがった大気が冷やされ雨が降る。雨は植物を育て、恐竜のエサとなる。苦労をせずエサにありつけるようになった恐竜はあまり動かなくなる。次第に巨大化し、よりエネルギーが必要となる。やがてはそれもままならなくなり、絶滅した。すなわち「絶滅は恐竜の怠慢による」と・・・?
 終わりに、今回の地ハイには以前「越生町史・自然編」編纂の際に関東山地研究グループが参加し、お世話になった越生町教育委員会の石川さん(現在は越生町図書館勤務)にご同行いただいた。案内者も寺社仏閣、石垣に関してそれなりに調べ、案内パンフに載せたつもりでいた。しかし、町史の自然編のみならず、他の分野にも精通しておられる石川さんの補足説明には及ぶべくもなく、大変お世話になった。また、五大尊(五大明王の尊称で、ツツジの名所)では、「四国八十八ヶ所、西国三十三ヶ所、坂東三十三ヶ所、秩父三十四ヶ所」の“写し霊場”をすべて案内していただいた。さて、皆さんに今後どれほどのごりやくが訪れるのか?

{松井正和 上尾南高校}(参加者 43名)

 
 新月ケ瀬橋付近の河原で礫調査
 石清水観音堂 

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第525回 箱根ジオパーク・小田原エリアの見学
  −埼玉支部・神奈川支部合同地ハイ−
 2019年 5月11日

 2019年5月11日、箱根ジオパーク・小田原エリアの見学をテーマに、神奈川と埼玉合同の地学ハイキングが開催されました。参加者は26名でした。JR小田原駅に10時30分に集合し、案内者の真木和男さんと富澤節子さんから「箱根ジオパークガイド1」のパンフとインカムが配布され、説明の後、小田原城に向かいました。
 小田原城は、箱根外輪山から続く尾根の先端にあり、地層は箱根火山から噴き出した火砕流堆積物の軽石と火山灰から構成されています。 戦国時代の小田原北条氏は、箱根火山の火山灰が堆積した関東ローム層を、土塁と堀に利用しました。また、箱根火山の安山岩質の溶岩を四角に加工して石垣に利用しています。小田原城の崩れた石垣を見ながら、二の丸跡にある小田原市郷土文化館の展示を見学しまし。その後、遊園地の脇から東海道線の線路沿いの道に出て、トンネルをくぐり、消防署の交差点付近には、北条時代の石の加工場跡が発見されたとのことです。早川口遺構は、小田原北条氏が秀吉の攻めに備えて造った総構の一部で、土塁と堀を二重に配したつくりとなっていました。
 左手に早川港(小田原漁港)を見ながら歩いて、早川駅でその後の登り道に備えて、しばし休憩しました。その後、箱根火山の溶岩でできた五輪塔のある曹洞宗の海蔵寺を経て、後ろに小田原の町を見ながら、山道を登りました。道の途中には、豊臣秀吉、徳川家康はじめ1590年の小田原合戦に参戦した武将と千利休や淀殿の説明板がありました。豊臣勢は総勢18万から22万の大軍で北条氏を包囲し、支城を次々と打ち破り、籠城した北条氏直はやむなく降伏して開城したのでした。  途中、右手に、もともとは小田原城の出城だったのに、豊臣方の細川忠興が  奪取して陣を張った富士山砦が見えました。富士山も箱根外輪山をつくる溶岩で構成されているそうです。予定よりかなり遅れ、一同、疲れ切って石垣山一夜城に何とかたどり着き、昼食となりました。この城は、豊臣秀吉が小田原北条氏を攻めるときに造った総石垣の城です。実際には80日かかったのに、秀吉は城を樹木で隠し、完成すると樹木を切って、一晩で完成させたように見せかけ、北条勢を驚かせたのでした。城内にはシャガの花が咲き、物見台からは、小田原の町と相模湾が一望でき、疲れを忘れさせました。ここで、真木さんは、西側のユーラシアプレートに向かって、北から北米プレートが、南西からフィリッピン海プレートがもぐりこんで、3枚のプレートの境界に箱根火山が形成されたと説明しました。また、北米プレートとフィリッピン海プレートの境界が、大磯丘陵の南西の縁にある国府津-松田断層となっているのです。一夜城の石垣は、箱根火山の溶岩を加工せずに自然のまま利用した野面積と呼ばれる方法で積まれていました。石垣の溶岩は、外輪山を構成する約30~25万年前の米神溶岩と25~23万年前の江の浦溶岩の安山岩および、12万年前に前期中央火口丘から流れた宮ノ下溶岩のデイサイトです。
 もとの道に戻り、今度は山を下って、入生田に向かいました。途中、姫ノ水橋からは上二子山、下二子山、駒ケ岳、神山などの箱根火山の中央火口丘と、塔ノ峰、明神山などの外輪山を見ることができました。箕ヶ窪橋から狭い階段を下ったところに、早川石丁場群が保存されていました。山の斜面の大きな転石を江戸城の石垣用の石に加工したのです。ノミで石の割れる筋目に矢穴をあけ、そこに水を含ませた樫の木、また鉄の楔を入れ、ゲンノウで叩いて石を割りました。そのように加工した石は、斜面に造られた石曳道を通して降ろされました。石は、米神溶岩と江の浦溶岩です。入生田に降りる道の左手には、石垣山に続き尾根が崩れて落ちてきた巨大な岩が斜面に留まっていました。また、関白沢の左岸の段々畑の土留の石垣には、板状節理を利用して板状に割れた宮ノ下溶岩を組み上げています。
 山道を下って、今日の最終目的地である入生田の県立生命の星・地球博物館が見えたときは、ほっとしました。博物館では、企画展「箱根ジオパーク展~身近な火山と友達になる」を見学しました。ここには、「箱根ジオパークガイド2~5」も置いてあり、それぞれ、真鶴、湯河原、神山、湯本の各エリアに関するガイドで、今後これらのコースも地ハイで取り上げたいと思いました。一部の参加者は、常設展も見学しました。途中大幅に遅れたにもかかわらず、最後は予定時間の15時30分に終了できました。熱心に解説してくださった真木和男さんと富澤節子さんに厚くお礼を申しあげます。  

{神奈川支部 後藤仁敏、埼玉支部 松岡喜久次}(参加者 28名 )

 小田原城址の石垣 
 早川石丁場群の岩を割ったときの矢穴 

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第526回 深谷断層(活断層)の断層地形と
        科学的特性マップ
  2019年 7月21日

 雨ばかりの今年の梅雨。雨の心配をよそに、外は何とか曇り空。深谷駅に40名弱の参加者が集まり、第526回の地ハイがスタートした。
 まず駅前で概要の説明を受ける。駅前でまず感じたのは、「駅舎がとても立派で東京駅みたい。」それもそのはず、旧東京駅建築の際、深谷産のレンガを使用したことから、東京駅をモチーフにした駅舎になっているとの事。
 線路とほぼ平行に走る深谷断層によってできた撓曲崖を境に、下の段から、撓曲崖に向けて歩いていく。途中、下段と撓曲崖の境付近では公園に大きな池があった。断層による崖地形のため、湧水が豊富との説明を受ける。きれいな湧水の池には、カワセミも遊びに来ていた。撓曲崖中の住宅街に入ると、南北方向の道が大きく傾斜しているのが分かった。道路の勾配を数台のクリノメーターを使って計測しながら歩く。
 再び下段に下り、瀧宮神社へ。ここは撓曲崖に建てられており、入り口には撓曲崖の縁から湧き出す湧水による大きな池が、傾斜を上ると次の段に社務所や手水舎があり、さらにその数段上、高いところに本殿がそびえ建つ。傾斜を上手く利用して段差のある地形に様々な建物を配置し、独特の雰囲気を出していた。神主さんによると、天神社の下から瀧のように水が湧き出ていたことから、瀧宮神社という名前となったそうだ。また、この神社で湧き出した豊富な水が、かつて深谷城の堀に引かれていたとの事。本来の撓曲崖の傾斜に近いという正智深谷高校周辺の道は、先ほどより傾斜が大きい。学校は盛土により水平に建てられているため、正門前の道は傾斜が分かりやすい。参加者みんなで道に一列に並び、傾斜の分かる記念写真を撮影した。途中、神社の境内で豊富な地下水を組み上げるポンプ式の井戸を観察し、駅近くの西島会館へ到着。
 昼食後は、放射性廃棄物の処理に関して政府が発表した「科学的特性マップ」と活断層の関係やその問題点の学習会。スライドや地団研のブックレットを使って行なわれた。2011年の原発事故前後の放射線量の変化や、当時大気中の汚染物質が埼玉県付近をどのようなルートで流れていったかなどの説明、鹿の解剖結果から分かった体の部位毎の放射性物質の蓄積量の違いと年齢・生息環境との関係など、とても興味深いデータが続く。
 また、科学的特性マップにおいて、活断層が線として捉えられていることや、断層に極近い周辺地域のみ「好ましくない地域」としていること、長さが10km未満の断層は含まれていないことなど、科学的特性マップの問題点を挙げ、個々の断層を線としてではなく、まとまった断層帯として捉えるべきという説明に参加者一同大きくうなずいていた。
 日本で現在検討されている地層処分に関しても、フィンランドやドイツなどの例を挙げ、活断層・地盤の特性・地下水などの観点からも処理中・処理後に問題が発生するリスクが高く、一旦処理してしまってから発生した問題に対処することは不可能であることなど、多くの問題点を学習した。こういった、他ではあまり聞けない内容に、最後の質問コーナーでは皆さんから多くの質問が寄せられ、興味の大きさがうかがえた。
 後半が学習会ということもあり、歩いた距離は2km程度。いつになく、歩かない地ハイ。「足腰が…」と最近地ハイから遠のいていた方も、これくらいなら参加しやすいかもしれない。そして、今日は参議院選挙投票日。当選した議員の方々には良識の府の一員として、放射性廃棄物処理方法を含めた原発の問題に関して、その問題点を明らかにし議論を戦わせることを強く望む。    

{川越高校 竹内幸恵}(参加者 35名)

下台池の湧泉 
深谷断層の撓曲崖 
 「科学的特性マップ」と活断層の学習会 

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第527回 秩父市街、地蔵川の跡と妙見七つ井戸をめぐる
                      
2019年10月20日

 今日の地ハイは、台風19号の被害によりバスの不通、札所31番立ち入り禁止などにより、急遽、巡検先を標記のとおり変更になりました。前日に宿泊された方もおり、ご迷惑をおかけしました。
 さて、当日は晴天に恵まれました。参加者数は18人で、少ないのは台風の影響かも知れません。
 案内者は、小幡喜一さん(小鹿野高校)・岡野裕一さん(所沢中央高校)です。また、地元在住の小林健助さんが解説に一役買いました。 集合場所の西武秩父駅前の大木は、メタセコイヤかと思ったら、葉が互生の「落羽松(らくうしょう)」で沼地や湿地の近くで育つということでした。そばにある秩父農工の解説の石碑は仙台石で、・・・と受付前から話が広がりました。
 受付も終わり、出発。秩父といえば、秩父夜祭りで、御旅所の不思議な鳥居の話題だけでなく、妙見宮・乗り物の石材へ話が進むのは地ハイならではです。屋台・笠鉾の見せ場の団子坂では、かつて、そのいわれである段丘レキがゴロゴロしていたそうです。
 近くにある秩父札所13番旗下山慈眼寺も、「旗下」が「ハケノシタ(崖の下の意味)」、その湧き水-地蔵川の源流-で眼を洗う-といういわれに納得できます。「地蔵川」と秩父夜祭りの御神幸のコースが関係しているのも興味深いものです。砂岩とチャートの石垣を見ながら番場通りへ向かいました。平坦に見える道路も、水がでると昔の川に戻るということですが、かつての地形は正直なものです。
 途中の番場通りは、私が子どもの頃に見た昭和の街の風景そのもので、タイムスリップしたようでした。「番場」も地形と係わりのある地名で、地名が変えられてしまうことが多い昨今、いつまでも残して欲しい地名だと思いました。
 15番五葉山少林寺では墓石の見学をしました。根府川石、小松石など箱根の石、古い墓石は岩殿沢石など見比べました。他、秩父事件で殉職した地方出身の警察官のお墓も話題になりました。つぎは、いよいよ秩父神社へ。神社が周囲より高くなっていることも、かつて段丘面だった頃の中州であることや、社殿の彫刻の地学的解釈できることも面白いものです。途中の武甲酒造では、ご主人の解説と段丘面の中を流れる伏流水を利用した酒蔵見学・お酒の飲み比べが行われました。お店をでる時は、顔を赤く染めたひともちらほらいて、長い地ハイの歴史でも初めての出来事だったと思います。
 下流へ進みます。かつての荒川であった地蔵川を堰き止めてつくられた溜池の跡がある17番実正山定林寺も高まりの上に建っており、ここも中州跡の上に建つお寺です。何やら段丘上のお寺が建つ場所は周囲より高い中州跡ばかりです。
 県指定有形文化財(最近は「アニメの聖地」と言った方がとおりがよい)である旧秩父橋から荒川を望みました。この橋がかけられたのも侵食に強く川幅が狭くなっており、橋を架けるのに適した場所でした。午後は、この侵食に強い地層沿いに歩きました。
 昼食後、ブラタモリで放送された19番飛淵山龍石寺へ。ポットホールに注目することなく関心が移ってしまった!などブラタモリ秘話もありました。干ばつ・龍が大雨を降らせる・飢饉から救うという言い伝えと、地形・水の関わりは、自然に裏打ちされたものです。また140号を渡り、広見寺へ。洞の中に、大般若教を写経した荒川の白っぽい石であるカコウ岩類・石灰岩があり、深い信仰に感心しました。
 18番白道山神門寺を通り、段丘崖沿いの「妙見七ッ井戸」の湧水と生活との関わりを考えながら秩父駅に向かい解散となりました。

{久保田郁夫 羽生第一高校}(参加者 18名)

秩父の街歩き
「武甲山の伏流水」をつかう武甲酒造を見学
「秩父橋」で昼食
妙見七ツ井戸「五の井戸;あらいの井戸」

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第528回 山地と平野の境(2) 晩秋の高麗郷をあるく
                      2019年12月15日

 11月とは思えない暖かな陽気に誘われてか、集合場所の高麗駅にはたくさんの参加者が集まった。多めに用意した資料が全てなくなる程。しっかり寒さ対策をして来た方は、暑くなって上着を脱いでしまう様な、地ハイ日和の天気の中、駅を出発した。
 巾着田に向かう途中、地元のチャートが台座の石として使われている台の高札や、水害を鎮めるために建てられた水天の碑を見学した。また、川そばよりも高い、標高100mあたりの台地の上に民家が多数建ち並んでおり、地形をうまく利用した人々の暮らし見ることができた。
 巾着田に到着。高麗川が大きく蛇行している巾着田は、ヒガンバナの時期に多くの観光客で賑わうとのこと。花の時期は終わってしまっていたが、河原で日帰りキャンプが流行っているらしい。川沿いに歩きながら対岸の飯能層を観察した。約200万年前に河原に堆積した洪水堆積物で、やや平らな丸い礫の多くは近くの山をつくるチャートや砂岩がほとんどであるなどの説明を受ける。地層中の礫をよく見ると一定方向に規則正しく並んでおり、当時の流れの方向を示すインブリケーションが確認できた。
 川沿いを更に進むと山地をつくる基盤岩であるチャートとそれらを削ってできた堆積物である飯能層の境界も観察することができた。また、この辺りでは、河原よりも一段高い部分でも、台風19号の際に運ばれて来たとみられる流木や細かな枝が木々に引っかかっている様子が見受けられ、台風当時の川の氾濫の程度がうかがえた。
 次に立ち寄った古民家(国の有形文化財)では、チャートの岩塊でできた立派な石垣を見ることができ、トイレ休憩中、敷地内ではガイドの方の詳しい説明に耳を傾ける人もいた。
 巾着田を離れて摩利支天神社から河原に下りると、枕状溶岩の露頭に到着した。こちらは台風の恩恵か、露頭がきれいに洗われて、ベストの状態で観察することができた。ここで、枕状溶岩や周辺の堆積物の形成過程、1億7千万年前くらいに形成されたことなど、詳しい説明を受けた後、観察&お昼休憩に。皆さん写真を撮ったり、サンプル用に転石を叩いたりして過ごしていた。
 午後は、メガソーラー建設計画地内の沢に行き、山地をつくるチャートや砂岩を観察した。地表付近の岩石は風化しており、施工後の斜面の安定性に不安を感じる。最後に、「高麗本郷メガソーラー問題を考える会」代表の上野さんにお話を伺った。斜面を大規模に伐採するメガソーラー建設には、土砂災害や水害の危険性・生態系の破壊・操業後の環境修復の見通しが立っていないなど、多くの問題があること、また考える会の活動状況やそれを受けて市議会がメガソーラーの建設を規制する条例を制定したこと等の説明を受けた。頷きながら話を聞く参加者の姿が印象的だった。
 昔から人は、地域の環境をうまく利用しながら生活してきた。環境の一部である私達が、自然とどの様に関わって行くべきか考える上で、地学的視点が果たす役割の大きさを感じる、そんな地ハイとなった。  

{竹内幸恵 川越高校}(参加者 50名) 

 高麗駅前 
 摩利支天神社下の枕状溶岩 
高麗本郷メガソーラー計画問題のお話を伺う

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第529回 元荒川構造帯と綾瀬川低地(赤堀川低地)
                     2019年12月15日

 桶川駅9:30集合。東口よりバスにて加納公民館下車。隣の坂田氷川神社の参道前にて、ルートの概略説明。パンフの冒頭に「・・・構造帯とは断層などで複雑な地質構造をした場所です。この地質構造が重視されるのは、台地の地層が堆積(後期更新世)後に、複数回の断層運動がおこり、構造帯の形成が行われたことです。すなわち、形成時期が第四紀更新世(古くは洪積世ともいわれた)以降と新しく、活断層帯とみなされるためです」とある。
 神社を東進し、加納小学校を左折北進すると、下り坂となる。坂の標高差は約2m。さて、この地形は?今回のパンフレットには同じ2.5万分の1の地形図を、現在のもの、2006年発行、1971年発行の3種類が載せられている。1971年版では10mが実線、5mが破線、なんと2.5mまでもが点線で記入されている。また、土地利用、特に畑と水田の区別がはっきりしている。坂の上が畑、下が水田であれば、台地から低地への縁と考えることが可能である。では、坂の上が畑、下も畑の場合はどうか?可能性として、断層による落差や撓曲(褶曲)が考えられるという。ここでの地形変化は綾瀬川断層による変位とみなしているようだ。
 さらに北進すると赤堀川となる。かつての赤堀川低地でのボーリング調査では、泥に含まれる珪藻化石は淡水棲のもののみで、縄文海進はここまで及んでいないらしい。赤堀川沿いに進み、元荒川との合流約100m手前の右岸には「お定め杭」という四角い石柱が残されている。この右岸の道(堤防)は「備前堤」と呼ばれ、江戸時代初期伊奈町に代官として入った伊奈備前守忠次が、下流の伊奈町を洪水から守るために築いた堤防である。しかし、今度は上流側が水害にあうことになり、この争いをなくすために、堤防の高さの上限を決めたのが「お定め杭」ということである。また、この「備前堤」を南に400mほど行くと、「綾瀬川起点」の石碑がある。北西延長の赤堀川を締め切ってしまったために、ここが起点となったようだ。
 昼食は氷川諏訪神社の境内をお借りし、防風林に囲まれた冬の木漏れ日の下で摂った。その後本日のまとめを行い、寒さも手伝って少し早めの解散となった。この地ハイの2週間ほど前にNHKスペシャルで「体感 首都直下地震」という番組が放映された。やはり“構造帯”や“活断層”といった名称は関心を呼ぶようで、まとめの際にも多くの質問が出された。冬の寒風のもと31名の参加であった。

{上尾南高校 松井正和}(参加者 31名)

 氷川諏訪神社境内でのまとめ 

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第530回 むきだしの磁鉄鉱床と根なし山の正体を探る(下仁田)
                    2020年3月16~17日 

新型コロナ感染症まん延防止のため、中止

 


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