地学団体研究会埼玉支部

日曜地学ハイキングの記録


 第321回〜第330回(1998年8月〜1999年7月)


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第321回 『石の変化を追って』荒川を下る
              1998年 8月22〜23日

 荒川は埼玉県最大の川、その延長は約170kmです。そして滝川、中津川、横瀬川、赤平川、入間川など多くの支流が流入しています。
 今回は上流(大滝村川又)から下流(熊谷市荒川大橋付近)まで、バスで移動しながら川沿いに見られる地形や地質を観察すると共に、河原に堆積する礫(礫種と礫径)の変化を追いながら地形・地質との関係を考えます。
 第1日目は三峰口駅前に集合、貸切バスで川又へと向かいました。車内で日程やコース、地形や地質の説明を聞きな がら車窓から奥秩父の景観を楽しみました。約1時間後、思わぬ犬族の歓迎を受け河原におりました。
 川又付近の地質は四万十帯の大滝層群とのこと、川岸には今まで見たことのない片理の発達した地層が見られます。
 この地点では地形・地質の観察と礫種の調査、それと今回初めて実施する礫径の調査(花崗岩とホルンフェルスの最も大きい礫の長径を調べる)をしました。
 礫種では縮緬皺がある千枚岩(粘板岩として集計)とホルンフェルスが目立ち、チャートが極端に少なく感じました。花崗岩は目立ちますが、調査の網にはなかなかかかりません。礫径は1m近いものがありました。調査後、河原で昼食。
 第2ポイントの大輪は秩父帯と四万十帯の境界付近に位置しています。登竜橋の下には緑色の岩石が露出しています。下流の河原への降り口には片理が発達した岩石が見られます。ここでは地質と礫種を概観し、礫径を調べました。チャートが普通に見られました。礫がかなり小さくなっていますが、それでも50〜60cmはあります。
 第3ポイントは秩父盆地に入って日野鷺橋下です。河原を抱くように第三紀の砂岩や礫岩が崖を作っています。この地層の中には貝化石や植物化石が見られました。この地点でも礫種を概観し、礫径のみを調査しました。河原の礫には中・古生界の礫のほか、第三系の砂岩が見られました。
 第4ポイントも盆地の中、佐久良橋下です。河原はさらに広がり、川の両岸に礫が堆積しています。調査地点は右岸側、多少植物がはえていますが、観察には支障ありません。礫種は砂岩とチャートが多いよ
うです。そのほか花崗岩。ホルンフェルス・凝灰岩・片理の見られる珪質岩・第三系の砂岩・石灰岩も見られました。礫径を調べて今日の観察予定はここで終了。16時20分、バスで宿に向かいました。
 夕食後、学習会(20時〜21時)1日のまとめは地形図を貼り合わせて作った荒川流域図や、礫種調査グラフ・地ハイのパンフレットを使って実施、質疑応答も活発でした。
 2日目朝8時30分出発、長尾根展望台からは秩父市街が一望できます。荒川が長く延び、昨日の観察地点、佐久良橋の河原も見えます。
 川に沿った市街をのせるや階段状の段丘地形大まかにわかりますが、霧のため盆地を囲む羊山丘陵や外秩父の山々ははっきりと確認できませんてした。駐車場へもどる途中、尾田蒔礫層とその上にのるローム層が見られました。
 玉淀ダム下の河原(第6ポイント)では川又と同様、地形・地質・礫種・礫径を観察しました。ここは荒川が外秩父山地から関東平野への出口にあたります。河原には結晶片岩が露出していました。
 礫種を調べた結果では、粘板岩とホルンフェルスが減少し、チャートと結晶片岩が増しています。線色岩も普通に見られます。礫の大きさは盆地内とあまり変わらず、大きな礫で30cm前後でした。
 調査後、日陰に移動して昼食。第7ポイントの正喜橋上流の乳児園下にある河原では右英斑岩と第三紀の礫岩が見られました。ここでも礫種は観察のみにとどめ、礫径を測定しました。対岸にほ第三紀の地層が露出し、かつての水位を示すノッチが見られました。
 第8ポイントの荒川大橋上流では、河原がさらに広がり河岸で地層を見ることはできません。しかし、礫種を観察しますと中・古生界の粘板寺・砂岩・礫岩・チャート・石灰岩・凝灰岩・第三系の砂岩・礫岩・凝灰岩、変成を受けた緑色岩・結晶片岩・ホルンフェルス、さらに花崗岩や蛇紋岩と最も多くの礫種が見られました。調査後、酷暑の河原で2日間のまとめをし、バスで熊谷駅まで行き解散しました。石漬け、礫漬けの2日間でしたが、文字通り楽しく石が見られたでしょうか。ほかの川こついても礫種や礫径の変化を追ってみたらいかがでしょうか……。

{松本昭二}(参加者35名)

第1ポイントの川又で記念写真
第2ポイントの登竜橋下流
第6ポイントの玉淀ダム下流で調査のまとめ
第8ポイントの熊谷市荒川大橋上流で

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第322回 秋涼の荒川中流を歩く−川本町・化石採集−
              1998年10月18日

 白波が立ち、岸辺まで満水の現地
 この日の地ハイは、現他には行きましたが、晴れては来ても台風10号の影響による増水で露頭は水没、交通機関の乱れのため参加者が係を含めて12名と少なく、見学できずに午前中歩いて中止。
 改めて実施することになると思います。

(参加12名)

台風一過の晴天とはなったものの・・・

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第323回 毛呂山丘陵で平野と山地の境界を見る−宿谷川−
              1998年11月22日

 今回の地ハイは、今年の1月の予定が大雪に見舞われ中止二となった毛呂山丘陵の宿谷川です。前回とは打って変わり、澄み渡った秋空のもとでの地ハイとなりました。観察のテーマは、関東平野の土台となる地層と、関東(秩父)山地の地層との境界の観察です。
 集合場所の高麗川駅から観察地点までは、紅紫に映える奥武蔵の山々を望みながら、3kmほどのハイキングを楽しみました。
 始めの観察地点は、下東寺東方の宿谷川ぞいの大きな崖です。この大露頭には3枚の特徴的な火山灰層が含まれ、シルト層・砂層・礫層などが見られます。地ハイパンフのスケッチを参考にしながら、それぞれの地層の特徴や連続を観察しました。
 1つ1つの地層をつぷさに観察すると亜炭が含まれていたり、堆積物が運ばれた方向を示すラミナが見られる地層もあります。それから判断すると堆積物は、西側の山地から東の平野に向かって供給された様子がうかがえます。
 また次の観察地点では、その環境が海であったことの証拠となる、生痕化石も観察することができました。
 関東山地の地層との境界では、直接山地と平野の地層が接している様子は見られませんでしたが、山地の硬い岩石(チャート)や岩石が細かく砕かれ、赤褐色を帯びた粘土が分布していました。
 午後は、宿谷川の技沢に見られる火山灰層の追跡です。火山灰層に含まれるジルコンのフィッショントラック年代の測定から、約220年前の火山灰層を観察し、午前中観察した火山灰層のつながりなどを観察しました。
 どの地点も日の差さぬ沢の中での観察でしたが、目下、調査中のフィールドとあって、ホッとでした。お昼には小松さんご一家が参加者のために準備してくださった心づくしの鮭汁をいただき、心身ともに暖まることがてきまた。

(参加57名)

宿谷川の大露頭で地層を観察

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第324回 初冬の長瀞をたずねて    1998年12月20日

 「花の長瀞あの岩畳‥‥」と秩父音頭にもうたわれている長瀞は景色のよいところですが、そればかりではなく「地球の窓」ともいわれ、地質学的にも有名なところです。今回は秩父鉄道の親鼻駅に集合して、旧親鼻橋南詰−皆野中学校下の川原−栗谷瀬橋付近の通学路−旧親鼻橋北詰−上長瀞の河原−自然史博物館の順で長瀞上流域を歩きました。
 最初のところでは紅れん石片岩を観察しました。この紅れん片岩は小藤文次郎教授によって「世界で初めて紹介された紅れん石片岩の露頭のひとつ」とのことです。荒川の水面から10m近く突き出た大岩は色も形も見事です。くわしく見ますと、紅れん石のほか絹雲母や方解石・石英などの鉱物も認められました。また、この大岩の上には直後3m近いものと50cm程の2つのおう穴があります。かつて、この大岩の上を滔々と荒川の水が流れていたことを示しています。
 次の皆野中学校裏の川原では、蛇紋岩が顔をだしていました。表面は暗緑色で脂肪光沢をしていますが、割れ目は緑黒色をしていました。岩体の下部には繊維状の蛇紋岩も見られましたが、これをねらってハンマーをふりおろす姿もみられました。対岸の通学路の北側には蛇紋岩の岩体が広く露出しているとのことでしたが、樹木におおわれて観察することは
困難でした。
 昼食は通りから少し南に入ったグランドのベンチで初冬の陽光を浴びながらとりました。午後の出発はバラけてしまい長い列となりましたので、秩父地域の地質研究に深くかかわったといわれる東京大学教授であった神保小虎が常宿とした「梅乃屋」は前を通過するのみとなってしまいました。
 紅れん石片岩露頭の対岸の旧親鼻橋北詰のところでは、緑泥石片岩を観察しました。ここの緑泥石片岩中には「磁鉄鉱や黄鉄鉱の結晶が比較的多く含まれている」とのことで、まなこを凝らして観察しました。最終地点の自然史博物館の川原では結晶片岩の表曲に見られる変形小構造の「キンクバンド」「横臥しゅう曲」「片理を切る小断層」などの説明を受けながら観察しました。
 最後に博物館内で開催中の企画展「美しい鉱物の世界U」や常設展示物を見学し1日の地ハイをしめくくりました。
 岩石や鉱物をつくる地球内部の営みに偉大さ、そして時の長さ、自然の造形の巧緻さなどに思いを馳せながら歩いた1日でした。

{松本昭二}(参加46名)

親鼻の紅廉石片岩の露頭
緑泥石片岩の露頭で磁鉄鉱を探す

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第325回 川越台地 上福岡の生い立ちをたずねて 
              1999年 1月17日

 案内をもらって、どこを歩くのかと事前に地図を見ましたが、案内ハガキに記載のある江川を地形図に見つけることができません。上福岡周辺は平たい台地のはずだが、さて、どこを観察するのだろうと興味をもって参加しました。
 上福岡駅の東口に集合してまちなかをすすみ五差路で南に進むと緩やかな坂がありました。何段かの面があり、その境に坂があるとの説明でした。坂を下ったところにありました「江川」が、しかし、その江川は遊歩道の地下に暗渠となって流れています。これでは地図に載ってないはずだと納得しました。
 遊歩道を東に進むと、福岡新田の先から、江川が姿を現しました。その先が水天宮だそうです。そこで江川のコンクリートの川底から湧水が噴きあがっているのを観察しました。坂の上の段丘面に降った雨が段丘面の境のところで湧き出しているとのことです。それにしてもコンクリートを突き破る勢いとはすごいものだなと感心しました。
 そこから北に進むと、住宅街の中に古い土蔵があり、この土蔵は関東大地震により北側の瓦がはがれたそうです。残念なことに最近になって修復されたようです。民家なので眺め見る感じで観察し通り過ぎました。
 さらに北に進む住居や畑がとぎれ、東に市立第五小学校を過ぎると、水田があらわれました。水田のこの面が沖積面で、この下に段丘面が潜り込んでいるそうです。
 西に進むと、旧河道らしき跡がみられました。さらに進むと高度が増し、再び住居のある地域に出ました。そこを右折すると、北に急な坂道がありました。坂道の上が小高い丘となっています。地元では権現山とよんでいるそうです。かつて徳川家康がこの他でたびたび鷹狩りを行いこの丘で休んだことに由来するそうです。ここで昼食をとりました。
 権現山の東が新河岸川で、その境の段丘崖の斜面を利用して緑地公園が作られていました。段丘崖の露頭で関東ローム層とその下の礫層を観察しました。
 次に、かつて新河岸川沿いに賑わいを見せた福岡河岸の跡を見学しました。資料館として保存されている土蔵の屋根に関東大地震の傷跡が残っていました。先ほどの民家の土蔵と同様に北側の屋根が損傷しているそうで、福田屋の石垣や江戸屋の土壁にも関東大地震の傷跡が残っているそうです。
 最後に、関東ローム層の火山灰を洗い出して中の鉱物の観察や段丘礫層の礫種や礫径などを調べて、川越台地の生い立ちに思いをはせてみました。

{高橋和行}(参加71名)

姿を現した江川を見る
権現山の関東ローム層

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第326回 春浅き山中に白亜の地をたずねて 
              1999年 3月21〜22日

 中生代の地層というと秩父中古生層もそうなのですが、恐竜やアンモナイトといった中生代の生物たちの姿を連想させる場所は、埼玉県付近ではなんといっても小鹿野町から群馬県中里村、長野県へと細長く帯状に続いている山中地溝帯です。
 第326回は、1泊でこの地を訪れました。山中はタイトルの「春浅き−」のとおり前日からの雪が降り積もり、さらに3月21日の午後からは雪が降りしきる中の真冬のような状態での見学になりました。
 1日日。西武秩父駅から案内の武井さんの話に白亜の海を想い描きながらバスに揺られ、まず最初についた見学地では、ほぼ垂直に立っている地層を見て、関東ローム層や秩父盆地などの水平に近い地層との時間差を感じる事ができました。
 バスが埼玉県と群馬県の境いの志賀坂峠を越えると、群馬県側は雪が一段と多くなり、山が深くなった感じを受けました。バスは国道299号線を中里村の神流川近くまで下り、そこから本格的な観察の開始です。山中地溝帯の地層は、古いものから石堂層・瀬林層・三山層という区分がされているのですが、今回観察した間物沢では、下流から上流に向かって次第に新しい地層を見ていくことになりました。
 バスを降りた一ノ瀬橋付近に分布している地層は、一番下の石堂層です。雪の残る沢へ降りてみると、とても硬い砂岩と、チャートのとても多い礫岩を観察する事ができました。また、石堂層は山中の地層の中でも一番豊富に化石を含んでいるもので、アンモナイトやトリゴニアの姿を頭の中に浮かべながら化石探しをしましたが、降りしきる雪と、濡れて見ずらい岩石の表面の様子に阻まれて、大発見はありませんでしたが、ウニといくつかの貝化石を見つけることができました。
 次のポイントは有名な瀬林の漣痕です。この漣痕に残っているたくさんの穴が恐竜の足跡ではないかと指摘されているものです。武井さんの説明を聞きながら、白亜紀の浜辺を歩く恐竜の姿に想像が広がりました。
 昼食の後は、瀬林層と三山層の観察をしました。瀬林層の中に含まれる礫岩層はとても見事なもので、礫として含まれる花崗岩類や緑色凝灰岩などに興味が集まりました。
 この日の最後の観察となった三山層の露頭では、互層の中の級化層理から地層の上下を判定しました。
 夕食後の学習会は、案内の武井さんの調査での思い出から山中地溝帯の地質構造まで幅広い話があり、質疑も白熱して、予想通り?予定の時間をオーバーしてしまいました。
 2日目。前日から降り続いていた雪はやみ、青空でした。
 この日の最初の観察は秩父盆地の第三紀層と山中地溝帯の地層が不整合で重なっている「犬木の不整合」です。不整合で覆っている第三紀層の基底礫の礫種は砂岩がとても多かったようです。
 不整合を観察した後は、志賀坂トンネルの入口付近から、地溝帯の地形を観察しました。また、近くの二子山も雪をかぶり、とても美しく見えました。
 次は、昼食をかねて、神流川沿いにある「恐竜センター」での見学となりました。ここではゴビ砂漠で発掘されている恐竜の骨格標本や発掘の様子などが紹介されていて、さらに、実際にゴビ砂漠から送られてきた化石をクリーニングしているところも見ることができました。常設展示では、山中から発見される化石も見ることができました。
 最後のポイントは初日に化石を探した場所へ戻って、再チャレンジです。前日に比べ条件もよく、化石の様子もわかってきたためか、多くの人が何らかの化石を見つけることができたようです。トリアゴニアの化石も見つかりました。
 大荒れの天気で、観察さえも心配された2日間でしたが、最後にお土産もできでまずは良かったかな?

{栗原直樹}(参加28名)

雪の中での化石採集
雪の志賀坂峠で記念撮影

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第327回 牛王山のなぞと関東ローム層 
              1999年 4月18日

 最近のはやり言葉はリストラに就職氷河期!。どちらも暗い日本経済を反映した寒い言葉です。でも氷河期って何?。
 今から100万年前から現在までを氷河時代といい、幾度か氷期と間氷期が繰り返し、海底が低下したり上昇していることが世界中の地層の観察からわかっているそうです。その一端を和光高校の前の牛王山(ごぼうやま)の露頭で観察できました。
 川はその流れの速さに応じて陸地を削る「浸食作用」、その流れの中に土砂をまきこんで下流へ運ぶ「運搬作用」、流れのゆるやかな下流や海底に上砂を沈ませる「堆積作用」があることは誰もが学校時代に習ったことですが、海底の低下や上昇によって、ある時は浸食され谷を刻み、ある時は堆積し平らな面を造るそうです。その平らな面にその時の証拠となるものを残しているということです。その証拠となるものは火山灰だそうです。
 このような研究から、我々が住む埼玉県西部から東京の下町にかけていくつもの地形面(段丘地形)があることがわかっています。その段丘地形やその土台となる地層はどうやってできたのかを考えてみました。テキストには、午王山付近で起こった、それらの様子が詳しくイラストで説明されていました。
 それのテキストを見ながら、ここ午王山の露頭で15万年前から現在までのいくつかの代表的な出来事、1つは、15万年前の海に堆積した地層とその化石の観察、1つは、8〜6万年前の川がためた礫層の観察、そして、その上に乗る6〜2万年前の火山灰、関東ローム層の観察を行いました。
 午後はその関東口ーム層を蒸発皿に入れ、わんがけ法により洗い出して、蒸発皿に残った鉱物を双眼実体顕微鏡で観察しました。室内実習は珍しいことなのでその様子を再現します。まず、蒸発皿に関東ローム層の固まりをあめ玉程度入れ、水を少量加え、親指の腹でよく練りつぶしまし。さらに7〜8分目まで水を加え、指についたどろどろのものを落としながら、全体をかきまぜました。2〜3秒ほど放置してつぶつぶのものが沈んだら、蒸発皿を傾け、にごり水を静かに捨てました。底に残った粒々を、さらに指の腹でよく練りつぶし、先ほどと同じように繰り返しました。にごりが完全になくなるまで、何回も練りかえすと、固い粒々だけになりました。
 その固い粒々をプレパラートの上に乗せ、双眼実体顕微鏡で観察しました。白く半透明なものや緑色っぽいもの、きらきらとガラスのように輝くものが観察されました。
 火山灰の観察を終え、年に1度の日曜地学の会総会を行いました。98年度の報告が行われ、99年度の予定の検討などを全員で行いました。

(参加38名)

午王山の崖を観察
ロームのわんがけと双眼実体顕微鏡観察

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第328回 武川付近の地層と化石をたずねて 
              1999年 5月30日

 今回の地ハイは、昨年10月の地ハイとほぼ同じ場所です。その時は、台風の影響で参加者も少なく、午前中で中止となってしまいました。ところが、今回は天気にも恵まれ、さらに、朝日新聞と読売新聞に案内が掲載されたこともあって、130名という最近には例を見ない参加者、とりわけ、子供たちが大勢参加してくれました。そのため、地ハイパンフが足りなくなり、急遽コンビニニでコピーするとうハプニニングもありました。
 まず午前中は、川本中学校下の荒川の河原で、1000〜1500万年前(新生代新第三紀中新世中期〜後期)の海底に積もった地層の観察です。観察地点では、200mほどの間に凝灰岩・泥岩・砂岩・礫岩などの分布し、その中には地層がたまったときの様子を示す堆積構造(ソールマーク、ラミナ、スランプ構造など)やいろいろな断層を見ることができました。また、昼食時間には、子供達を対象に“川原の石の仲間分け”のミニ講習会も開かれました。
 午後は、川本町菅沼の荒川河床での待ちに待った化石採集です。この付近に分布する泥岩の地層からは、二枚貝・巻貝・ツノ貝などの貝化石の他に、魚のウロコ・木の葉・サメの歯・魚の骨の化石が産出します。貝化石は構成種から塩原型化石群と呼ばれています。
 参加者は、案内者の説明もそこそこに、川の中で水しぶきをあげながら熱心に採集していました。最後のまとめでは、お互いに採集した化石を見せあったり、案内者から鑑定の方法や当時の自然環境についてお話を聞くなど、化石を手にしばし1000万年前のこの地域の様子に思いを馳せることができました。

(参加130名)

菅沼の河原で化石の説明
川の中まで入って化石採集

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第329回 初夏の秩父路の中生層を見よう 
              1999年 6月20日

 皆野駅からバスに乗り、農民ロケットの「龍勢」で有名な吉田町に向かいます。ここ石間川(吉田川支流)は秩父盆地の北縁の秩父中古生層(秩父累帯北帯)中の谷です。ここにプレートテクトニクスで解釈するのにぴったりな「混在岩」(メランジェ)が分布するというのです。
 はじめの石間川の河原では20mほどの
範囲に泥岩、チャート、石灰岩が数mの塊りでブロック状に分布していました。実習形式のパンフレットに従って、石の特徴を記録してき、岩石の名称、堅さや、断層の入り具合など、自分で特徴をつかんでいきます。露頭の調査そのもので、水に浸かりながら露頭の解明に没頭しました。
 この後、林道沿いに登って、工事でできた崖を観察しました。ここでは、1m四方のチャート、砂岩、泥岩、凝灰岩などがブロック状に混在しており、1つの露頭で全体が見渡せるので、初心者にも混在岩の様子がよく分かりました。話による、一山全体が1つの岩石のブロックであることもあるそうです。
 今回の地ハイを通して、この辺りの地層を「○○層」と呼ばず、「○○ユニット」と呼んでいる理由がよく分かりました。平らに堆積した地層もプレートの沈み込みによって、日本列島にくっついていくさに、ブロック状に壊されてしまいます。その中にはプレートに乗ってきた大洋底で堆積したチャート、ハワイのような大洋にそびえる海山の上に形成された石灰岩などと、陸地側からもたらされた泥が混じり込むのです。この場合、下からプレートに乗ってきた岩石と陸地から運ばれた岩石が付け加えられますので、下の方が古くて上が新しいという「地層累重の法則」は成り立たちません。
 プレートテクトニクスというと、日本列島の形成など大きなテーマを机上で考えてしまいがちですが、こうした足下の地道な調査結果が基本になっていることを忘れてはならないと思います。当日朝まで降り続いた雨で参加者は少な目でした。

(参加26名)

混在岩の産状を観察 

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第330回 武川岳−二子山 石を見ながら登山 
              1999年 7月25〜26日

 毎年2月には、次年度の見学地について考える「企画会」が開かれますが、今年は登山ブームを反映てか、山登りの企画を希望する声が多く出ました。それもあって今年度の宿泊の地ハイはすべて登山になり、今回はそのメイン企画ということになります。
 集合時間は午後4時。翌日の早朝出発を見込んで、前の晩から泊まり込みとしました。集合時刻に時を同じくして激しい夕立があり、翌日の雷が心配されました。夕食はこの話題で盛り上がりました。夕食後の学習会ではスライドで翌日の登山の仮体験をする形で行われ、翌日のポイントの把握に大変役立ちました。
 朝8時に出発、意気揚々と登り始めます。始めに出会ったのは橋立層の石灰岩で、尾根沿いに見られる石灰岩の浸食地形、カレンフェルト(墓石地形)が印象的でした。この石灰岩はこの付近で、南東から北西方向にレンズ状に分布しているということです。武川岳までの道のりは、石灰岩の他に赤色チャートや火山灰起源と思われる淡緑色珪質岩が露出しており、昨年の武甲山の登山を思い出しました。武川岳で昼食をとり、午後も頑張るぞと意気込んで出発しました。蔦岩山、焼山、二子山はアップダウンを繰り返しながら進みますし,これらのピークは風化に強いチャートからできており、再結晶してないため、放散虫の化石を含むものも見つかりました。二子山から芦ヶ久保への最後の下り坂では石灰角礫岩と玄武岩質凝灰岩からなる露頭が見られます。石灰岩のレキの中にはフズリナ(紡錘虫)の化石がたくさん含まれており、ここは海底火山の上にのったサンゴ礁の崩壊の現場と考えることができそうです。皆さん最後の力を振り絞ってハンマーを振り、そして目を凝らして石灰岩の中に5mm 程度のだ円形の模様を探しました。
 午後の武川岳からのルートはアップダウンを繰り返す長い道のりで、持久力が試されるコースでした。参加者のなかには高齢の方もいらっしやって、途中エスケープルートから山を下りた方、後半やっとの思いで登り終えた方もいました。案内ハガキを見直すと8時に出発、5時に芦ヶ久保の予定ですから、9時間の耐久登山です。係としてもそれを強調しなかったという落ち度を感じています。地ハイといえども登山はなめてかかるな!という教訓が身に付きました。それでも、怪我もなく、歩けなくなってしまう人も出ずに山を下りられて本当に良かったと思います。また雷にも合わず、天候にも恵まれた一日でした。

{小島正順}(参加25名)

翌日の登山を前に勉強会
天狗岩への石灰岩の急坂を登る
武川岳山頂で記念写真

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