地学団体研究会埼玉支部

日曜地学ハイキングの記録


 第301回〜第310回(1996年8月〜1997年7月)


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第301回 奥秩父で鉱物採集 −秩父鉱山・中津鉱床−
              1996年 8月18日

 夏はどこへいっても暑い。では山奥ならということで久しぶりに秩父鉱山を訪ねました。秩父といっても秩父市ではなく、さらに車で2時間ほどの大滝村・中津川渓谷のさらに奥にあります。三峰口からバスで1時間ほどかかって中津川集落の終点のバス停で降ります。交通に時間がかかるため、本数の少ない路線バスを使わずに人数制限してチャーターバスで行きました。
 秩父鉱山は接触交代鉱床という種類に分類されます。石灰岩などの岩体にマグマが貫入し石灰岩の成分と交代作用をおこしてマグマ中の鉄や銅などの金属成分が濃縮されたものです。こうしてできた岩石をスカルンといいます。秩父鉱山は戦前は金銀の鉱山として、戦後は鉄・鉛亜・鉛も出鉱して日本有数の金属鉱山として有名です。しかし、最盛期の昭和47年を境に非鉄市場の低迷、選鉱後の鉱石くずを処分する場所の確保が難しくなったことから、現在は結晶質石灰岩・珪石の鉱山として稼働しています。今回はお盆休みと重なり、残念ながら鉱山の見学はできませんでした。
 さて、秩父鉱山にはたくさんの鉱床がありますが、今回はそのうち中津鉱床の渦の沢と桃の窪でスカルンの産状の観察と採集を行いました。われわれが採集するのは鉱山の跡で、当時、鉱石くずとして捨てられた「ズリ」と呼ばれるものです。鉱床に近づくと道路脇にマグマの熱で泥岩などが焼かれたホルンフェルスやマグマ本体が冷えた閃緑岩が見え始めます。「県民の森ふれあい活動センター」の炭焼き小屋のわきの沢を上って渦の沢に着きます。ここは露頭が各所にみられ、スカルンの産状がわかります。主に灰鉄輝石中の隣灰石が目玉で、その他、水晶、磁鉄鉱、緑簾石などのわりと新鮮な標本が手に入りました。また、地底への入り口のような鉱口跡も各所にみられ、別世界の気分を味わえました。昼食時には色々な鉱山でとれた鉱物標本の配布やその説明が行われ、鉱物に対する興味が一層深まりました。
 午後は来た道を戻り、前回の秩父鉱山での地ハイで行った、桃の窪のザクロ石や黄鉄鉱などを採集しました。ここは斜面一面が小石でまさにズリ捨て場という感じですが、ずいぶん植生に覆われてしまいました。鉄錆色の褐鉄鉱が露出する鉱口群や、鉱石を運搬するホッパーの残骸があり、時代の流れを感じさせます。また、桃の窪までの沢の堰堤は黄褐色に染まっており、水源地での鉱さいの処理を考えさせられました。
 少し危険な場所もありましたが、皆さんの協力で無事終了しました。夕立(中津では午後2時頃起きやすい)も心配しましたが天気も保ちました。内容がなかなか体験できない鉱物
採集であり、夏休みで小中学生が参加しやすい時期で人数を制限したのは心残りでした。しかし、崖や急斜面が多く、案内できる人数としては限界だったかと思っています。

(参加者44名)

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第302回 秋の秩父盆地をたずねて−黒谷・大野原−
              1996年 10月27日

 葉書には「300回記念祝賀会」のタイトルが前面に出ましたが、和銅開珎の由来の和銅とその史跡、出牛−黒谷断層の見学、蓼沼での化石採集など、盛りだくさんの内容でした。
 黒谷駅から山の岩壁に「和銅」という文字が見えます。まず、祝山の峠までの崖で鷲ノ巣層の礫岩と砂岩の走行傾斜をクリノメータで測りました。道に沿って測っていくと地層が摺曲しているのがわかります。峠を越え、和銅沢を上ると大きな和銅開珎を型どった碑があります。ここが「和銅露天掘り跡」ですが、露天掘り跡に見える溝状の地形は有名な出牛−黒谷断層の大露頭なのです。黒色に変質したグチャグチャの破砕帯を挟んで右手は秩父盆地の第三系の砂岩、左手は古生代のチャートです。この断層は四角い秩父盆地の東端を切るものの一つで、自然銅はこの断層に関係していると考えられます。
 近くには自然銅を御神体とした「聖神社」があり、朝廷から賜った銅製のムカデ、和銅発見についての記録が残されています。境内には鉱物や化石を保存した建物もあり、御神体とともに見学させていただきました。
 お昼は荒川の河原に下りてトン汁で300回を祝いました。記念グッズ3点セットも初お目見えして、その出来映えに歓声が上がっていました。午後は、上流の蓼沼で化石採集です。ここは鷺の巣層の下位の奈倉層の砂岩で、貝・カニ・鮫の歯・生痕化石の採集・観察をしました。化石は地球の変遷を語る重要な資料です。ただ採集・所有して楽しむだけでなく、記録に残して公表し、これからの世代のためにも人類共通の財産としたいものです。

(参加83名)

708年、和銅発見ゆかりの聖神社
300回記念をトン汁で祝う

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第303回 初冬の嵐山渓谷周辺をたずねる −都幾川・槻川−
              1996年 11月17日

 今回は5月に小川町で結晶片岩を観察した槻川の下流にあたる、都幾川との合流点付近を歩きました。テーマは「礫の観察を通し、“外秩父山地の隆起”を秩父と嵐山から考える」で、礫調査の醍醐味って何か?がわかる内容でした。ここ嵐山は「外秩父山地」の東の裾野、前回の秩父盆地の黒谷は西の裾野にあたります。2地点の礫種と嵐山での時代ごとの礫種の変化からどんなことが推定できたのでしょうか。嵐山では現在の河原、第四紀の段丘礫、台地を構成する第三紀の礫層の礫種を比較しました。
 都幾川に下っていく道路は、都幾川のつくった河岸段丘を切り通しています。この崖に段丘礫と呼ばれる約5,6万年前の第四紀更新世後期の武蔵野期の河原の礫層がみられます。次に都幾川の中州で現在の河原の礫調査を行いました。段丘礫と現在の河原の礫は緑色岩が多く、あまり差がありません。第四紀更新世後期には現在この地域の後背地となっている外秩父山地には、すでに緑色岩が分布していたことがわかります。ところが、少し上流の第三紀層の露頭からは砂岩が多く、緑色岩はばとんど見られません。これは前回の外秩父山地の反対側の第三紀の礫岩にもいえることです。約1500万年前の第三紀中新世の外秩父山地には変成を受けていない秩父層群を構成する岩石が分布していたと考えられます。外秩父山地が隆起する過程で、地下で変成を受けた緑色岩が露出してきたのだと考えられます。
 午後は、槻川の嵐山渓谷で紅葉を楽しみながら2度目の礫調査をしました。礫ざんまいでしたが、風もなく穏やかな小春日和で、都幾川の中州に渡るときは裸足になる人もいて、さわやかな秋の一日を過ごしました。

(参加41名)

槻川(右)と都幾川(左)の合流点

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第304回 冬の丘陵地帯を訪ねて −吉見丘陵−
                 1996年 12月15日

 日帰りの観光地として有名な吉見百穴前に集合です。地ハイではお馴染みのコースですが、案内葉書の「ガーネットザクザク?」のせいか予想外に人が集まりました。吉見丘陵は新第三紀の火山灰からなる凝灰岩、地下で高温・高圧を受けた吉見変成岩類が有名です。しかし、断層や不整合で囲まれており、関東地方の他の地域と対比をするのが難しいのです。
 百穴前の岩室観音で凝灰岩で、霜のような結晶を見つけました。これは凝灰岩に含まれていた硫酸マグネシウム(にがりの成分)が再結晶したものだとわかりました。「なめたら」の声に味見をすると確かに苦い、おもしろい発見でした。百穴には寄らずに遊歩道にまわり、水中で堆積したことを物語る層理のある凝灰岩を見ました。この地層はかつて「みがき砂」を採っていた、射撃場付近の石切り場に延長できます。数年前に暴走族のたまり場となり、閉鎖されたため見学ができなくなってしまいました。
 次は根古屋でお目当てのガーネット探しです。白と濃緑色の縞模様が発達した片麻岩風の角閃岩が母岩ですが、やっと小豆色の米粒大のものが確認できる程度でした。ざくろ石が出る角閃岩は他にもありますが、薮がひどいので今回はここで済ませました。
 吉見観音で昼食をとった後は南束側の造成地で礫層の礫調査です。階段状に切られた数十mの崖にへばり付いての採集は大変でした。さらに礫層の礫はかなり風化しており、凝灰岩か砂岩か判断に観りました。河原の礫とは比べものになりません。わからないとの声の中、日の短い冬の地ハイが終了しました。礫層は物見山礫層相当ということです。

(参加48名)

岩室観音堂で凝灰岩を観察
ざくろ石が出る角閃岩を探して

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第305回 武蔵野の歴史と自然をたずねて −新座市・野火止− 
               1997年 1月19日

 四月の蓮田に続き、平野の特に台地を中心に歩きました。関東ローム層(赤土)とその下の礫層から湧き出る湧水、寵姫の斜面林・雑木妹、そして野火止用水といった植物や歴史的な内容を取り人れた地ハイになりました。ローム層の露頭ではわんがけで取りだした鉱物の結晶を顕微鏡で見せていただき、美しい鉱物を崖を前にして観察することができました。
 新座高校前のバス停から古い農家などを見学しながら黒目川を渡り、妙音沢に到着しました。ここは台地の赤土の下にある武蔵野礫層の崖で、礫層に挟まっていると考えられる泥層の上から地下水が流れ出ています。こんこんと湧き出す湧水は冬の寒さとは裏腹にあたたかく、渇水期にも関わらず大量の水が出ていました。武蔵野礫層は氷河時代に海が退き、この辺りが山裾の扇状地だった時代に川がつくった地層です。妙音寺の逸話や台地の崖に生える斜面林の話しを聞きながら、黒目川を遡りました。川底には下末吉海進の時の堆積物と考えられる東京層らしき粘土が見られました。
 午後は掘之内付近の切り通で関東ローム層を観察しました。赤土の崖でAT火山ガラス、腐葉土が変異したBB、濃青色のスコリアのBCVAの層など、細かく観察しました。一見しただけでは赤茶一色のローム層ですが、これだけの崖になるまでの様々な出来事が読み取れました。
 ローム層の上の雑木林では人間生活と林の変化について考えました。最後に野火止用水に沿って平林寺の関係を聞きながら歩き、総合体育館で解散となりました。

(参加79名)

妙音沢の大沢で
火山灰層中の鉱物を双眼実体顕微鏡で観察

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第306回 巨摩山地御勅使川流域巡検 1997年 3月22〜23日

 地ハイ300回記念巡検として、南部フォッサマグナ地域である山梨県芦安村〜夜叉神トンネル周辺の一泊巡検をしました。昨年の9月から、6回の学習会と2度の夜間学習を行い準備万端(?)整えて甲府駅に集合しました。2台のバスに分乗し、角田先生の案内で、まず信玄堤に降り立ち甲府盆地の扇状地形を眺めました。ここは御勅使川の洪水を弱めるため、合流する釜無川に櫛の歯の様な形に配列された信玄提が戦国時代の頃作られたとのことで、当時の雄大な治水事業の跡をしのびました。
 芦安村へ向かう途中古屋敷橋迄の両岸は、薄い緑色をおびたいわゆるグリーンタフの崖が続きます。古屋敷橋の下の御勅使川原では各グループに分かれて海底地滑り跡を見学しました。玄武岩に挟まれた砂岩層が切れたり曲がったりしているのを木の棒等を並べて見ましたが、指摘されなければ気ずかない程狭い範囲の地滑り跡をたどりながらどのように滑ったのかを討議しあいました。
 宿舎(芦安温泉岩園館)の前の川の対岸の崖には櫛形山東層群と桃の木亜層群に2分する大きな断層があり、宿舎側から眺めることが出来ました。宿舎ではゆったり温泉気分を味わうことも出来、夕食後恒例の学習会ではグループ毎に分かれて準備学集会の内容も含めて見学地についての質疑応答をしました。
 二日目は夜叉神トンネルへ向かいました。途中太上石流の跡を見たとき、角田先生から「ここで問題、土石流の位置を示しているものがありますどれでしょう?」参加者「山側の杉の木の片側だけ枝が削ぎ取られている範囲では?」「ピンポーン」という場面もあり、あらためて自然の猛威に目を見張りました。トンネルの事前からは歩きながらの観察になりました。この当たりの地層からは貝化石等も産出されるということでしたが、今回は誰も発見することが出来ませんでした。
 夜叉神トンネルでは歩測の練習もしました。暗いトンネル内は小枝を片壁に触れさせながら、皆黙々と歩数を数えながら歩き出抜けてから実際の距離(1148m)とどれ程近いか比べました。夜叉神トンネルの端から数百mの間は赤茶けた硬い岩石とグチャグチャに破砕された泥岩が分布していました。この間が、糸魚川−静岡構造線の破砕帯になっていて、辺りの地形は大きくカール状に窪んだ谷が走っていて想像以上に激しい地殻変動の跡を目の当たりにして感激しました。
 二つ目のトンネルの入り口では黒っぽい層状でもろい石墨片岩があり、出抜けた所では硬い灰白色の石英ひん岩が表れていました。三つ目のトンネルを抜けたところの「御の立ち所」からは晴れていると白嶺三山の雄大な景色が現われるのですが、今回は残念ながら見ることは出来ませんでしたが、金子さんがこの日のために用意して下さった「地ハイ300回記念巡検」と染められた横断幕をはって記念撮影をし、日本列島を横断する糸静線を目の当たりにすることが出来て大満足顔で帰途につきました。

(参加52名)

「御の立ち所」で記念写真

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第307回 春の見沼田んぼ 東縁を歩く −浦和市− 
              1997年 4月20日

 春の見沼田んぼは3年ぶりです。前回は「見沼田んぼで潮干狩り?」などという不思議なタイトルが付けられていました。というのは、見沼田んぼの地下から掘り出された束京層の貝化石の採集をしたのです。今回は前回のような見所はありませんでしたが、昔の面影が今でも残っている見沼の崖を求めて、見沼代用水の東縁を歩きました。
 見沼代用水は江戸時代に見沼を田んぼに干拓する代わりに、沼の崖にそって掘られた用水路です。現在ではそのほとんどがコンクリートの三面舗装がされてしまいました。その中で、わずかに残された国昌寺周辺の地形と樹木を観察しました。この付近は埼玉トラスト1号地として、保護されています。国呂寺までは、住宅地が押し寄せる三室の崖で、関東ローム層の観察、氷川女体神社では雑木林の観察をしました。大崎の崖ではローム層の下にある「硬砂層」という地層の生い立ちについて、研究をされた小勝さんから説明を受けました。午後はさぎ山記念公園まで歩き、日曜地学の会の総会を開きました。ここでは、特に昨年の300回記念行事の報告と、300回記念基金の会計報告がされました。また、基金の残金の使い道について話し合われました。
 春の見沼田んぼは、斜面林は芽吹きで黄緑色に染まり、たんぽぽや菜の花、植木畑のハナミズキが彩りを添えます。平野の地ハイは露頭が少なく、見所に欠けますが、身近にある自然を満喫するのもいいものです。また、自分が住んでいる地域との比較をして、学んだことを自分の地域に置き換えてみることがで書ます。地ハイで学んだことをもとに、自分で身近な地域を調べてみませんか。

(参加46名)

見沼代用水
三室の関東ローム層

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第308回 下総台地木下層の地層と化石 −千葉県・木下−
               1997年 5月18日

 千葉県印西町木下は首都圏では有数の貝化石の産地です。貝化石といっても、化石が堆積したのは今から10万年ほど昔の新生代第四紀更新世で硬い砂の中に貝がたくさん詰まっているという感じです。この地層は西に行くにしたがって深くなり、久喜市付近では地下30mから同等の化石がでてきます。4月の見沼田んぼで、3年前の地ハイで採集した化石と同等でもあります。また、同じ地層の深さの変化から、関東平野が中央で沈んでいることをとらえるという点で、6月の地ハイとも関連しています。
 駅から大森の崖に近づくと、畑の畦道に白い貝の破片が増えてきます。崖の上の方には見沼田んぼで見た関東ローム層があり、その下には緑がかった火山灰質の泥層、その下が砂層で貝が密集していますし,ここを中心になるべくたくさんの種類を採集しようと、がんばりました。化石のほとんどが二枚貝ですが、大型のヤツシロガイなどの巻貝も含まれ、子供達が得意になって探していました。昼には貝の鑑定法の講習会があり、分類のポイントを教えていただきました。同じように見える二枚貝でも、殻のちょうつがいのとことにある「歯」といわれるギザギザを見て分類できることを知りました。地団研の地学ハンドブック「貝化石の鑑定法」は分類の基礎から詳しく書かれており、安価で大変役立つ本であることを再認識しました。また、同定から踏み込んで、種類から貝が生息していた海の緯度や、深度・底質を推定することにより、古環境を復元できることも学びました。

(参加48名)

貝化石の説明を熱心に聞く
化石層を掘って貝化石を出す

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第309回 加須低地の自然環境をさぐる −加須市・浮野− 
              1997年 6月15日

 4月に引き続き、また平野の地ハイですが、県東部に住む方にとっては興味深い内容です。自分の住む地域の地盤はどうなっているのか。そんな問いかけに、この地域を研究されているお馴染みの堀口萬吉氏に案内をしていただきました。また、地下に眠る地形と植物が密接に関わっていることについて、地元で「浮野」とよばれる低湿地の研究されている橋本 庸氏に説明をしていただきました。
 加須低地は古墳時代の利根川の流入以前は、大宮台地に続く台地地形をしていたといわれます。それが、2000年ほどの間に沈降し、関東ローム層を乗せた洪積台地が地下に埋没しました。この埋没した地形を検土杖や、竹でつくった自家製のドリルを突き刺して調べました。
 現地に行って印象的だったのは、一見平坦に見える低地のなかにも、掘ってみるとローム層が出てくる所とそうでないところがあることです。地下が台地であったり、谷が埋没していたりするのです。浮野は地下に谷が埋没していますが、ボーリングしてみると場所によって、洪積層までの深さがちがいます。ここには寒冷地や高山の湿地に生えるトキソウなどの特殊な植物が見られますが、その原因は埋没地下谷の中にある湧水であると考えられています。湧水によって、水位・水温が一定に保たれ、特殊な植物が生息し続けているのです。
 浮野の近くでは、あやめ祭が開かれており、田船に乗って用水路を移動しながら自然を楽しむ姿が見られました。

(参加44名)

「浮野」とよばれる低湿地を説明する橋本 庸氏
埋没地下谷の解説をする堀口萬吉氏

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第310回 堂平山 地質学論争
      秩父中・古生層と三波川変成岩  −小川町・平萱−

                1997年 7月20日

 第1回の地学ハイキング(日曜巡検)は、堂平山をテーマに行われました。当時、大学の先生や学生が中心となり、堂平山頂にある秩父中・古生層の岩石が別の場所から運ばれてきたのかどうかという論争を確かめるものでした。今までに出た論文の主旨を午前中の学習会でふまえて、露頭を前にして考えようという、ワクワクする内容でした。
 堂平山は、山頂と山麓を構成する岩石が違っています。山頂側は秩父帯のチャートでできているのに、山麓側は玄武岩やはんれい岩が変成した三波川帯の緑色岩でできています。この2種類の岩体の関係が問題で、最近、関東山地団研の調査でキーとなりそうな露頭が発見されたのです。まずは、この問題に関する3つの論文をまとめておきましょう。藤本治義(1937)は“大規模な押しかぶせ褶曲による根なし地塊説(衝上断層)”とし、布団を折り畳んだような褶曲構造があり、2つの地層がずれて重なっているというものでした。井尻ほか(1944)は“チャートへのはんれい岩の貫人”とし、衝上断層がみられないことや、緑色岩がチャートに貫人する部分があることから、前説を否定しました。安戸団研グループ(1982)は、“緑色岩の上にチャートが堆積する整合説”とし、衝上断層が確認できず、両者が調和的で、緑色岩が火山砕屑岩であり、チャートに貫入していないことから、前二説を否定しています。
 新しく発見した問題の露頭まで、きつい山道を登り、チャートと緑色岩の接点を観察しました。この露頭をどうとらえるか?整合にも見えるし、滑っているようにも見える…。いろいろな意見が出た中、小鹿野高校の関根一昭氏は“プレートの沈み込みによる付加体によく見られる構造だ!”と主張していたので、持論を披露していただきました。

(参加54名)

付加体の構造を解説する関根一昭氏
堂平山をめぐる論争を解説する保科 裕氏

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