地団研埼玉支部 日曜地学ハイキング200回記念総括誌 1986.9

日曜地学ハイキングの変遷

1.地ハイが始まるまで(1950年〜1965年)

 埼玉大学文理学部に、地学研究室ができたのは1950(昭和25)年だった。この4年後の1954(昭和29〉年に、研究者2名、学生10名によって地学団体研究会埼玉支部が始められた。
 地団研全体をみると、この年に井尻正二会員によって、「科学運動の新しい方法」の中で、創造・普及・条件づくりの『三位一体』の活動がとかれ、翌1955(昭和30)年には総会で『僻地方針』がだされたという時期だった。
 しかし、埼玉支部の初期の活動は、大学内の読書会などに限られていたようだ。ところが、高校で地学が必修となった1963(昭和38)年から、教師会員が急増し1966(昭和41)年には学生会員を上回る21名に達した。このころから、埼玉支部の活動はにわかに活気づき、支部運営委員会や支部例会(講演会・技術講習会・巡検・映画会〉が行われるようになった。
1957(昭和32)年から行われた秩父団研では、機関誌「秩父」や、調査地域ごとの「武甲山」などの普及パンフをつくっており、多くの読者をもっていた。1965(昭和40)年頃、団研はまとめの段階にはいっており、大久保雅弘会員を中心に、ひろく普及を進めてゆく必要性が論じられていた。
 また、高校数師の地学を学ぶ場、学生を勉強させる場が求められていた。

2.日曜巡検はじまる(1965年10月)

 秩父団研が行われていた当時は、埼玉県地質図や関東地方地質誌にでている『大霧山押し被せ構造』があって関東山地北東部の秩父帯北帯ができているという、藤本氏の考えが小中学校の教師をはじめ一般の人々に当り前のこととして受け入れられていた。(すでに、井尻会員らによる「堂平クリッぺ」を否定する研究が発表されていたのだが。)
 秩父団研でまとめた見解は、層序は藤本氏と同じだが、広い地域の地質構造のとらえ方がまったく異なり、「堂平クリッペ」などの『大霧山押し被せ構造』を否定するものであった。“みんなの目で地質を見てみよう”、“我々のやっていることは間違っていない”ということで実施されたのが、1965(昭和40)年10月24日の、笠山・堂平山での第1回日曜巡検(日曜地学ハイキングの前身)だった。「知識を教える立場ではなく、一緒に歩いて石を見ていくことが本当の普及だ」という考えにもとづいた、敵を意識した活動の1つだった。
 また、この年は地団研総会で、「討論会“地団研の科学運動”」がおこなわれているのも、1つのきっかけではないだろうか。

3.20回まで(1965年11月〜1968年1月)

 初めのころの日曜巡検は秩父団研と埼玉支部の共催で行われ、大久保会員、堀口会員、村井会員といった研究者の全面的なバックアップがあった。参加者は、教師、学生が多く、現地研修会的な色彩があった。
 日曜巡検を続けるうちにきちんとした本にまとめようということになり、意識的な取り組みがなされた。この本は、一般向けの巡検案内書としては初めてのもので、20回を記念して『日曜の地学』という名前で出版された。これに続くように、地団研の一般向け巡検案内書づくりが盛んになり、『日曜の地学』はシリーズにされている。
 日曜巡検の影響で、支部活動の組織化、活性化がすすみ・支部報が創刊され(1967年)、支部のスローガンも掲げられるようになった。また、20回記念のときに皆勤賞を出そうと言う話があったが、自主的活動にそぐわないと、取り上げられなかった。

4.21回〜50回(1968年2月〜1971年3月)

 研究者に頼りきりではなく、支部会員みんなの手で日曜巡検を行うようになってきた。主な会員は年に1度は案内役をつとめるようにされていた。
 25回(1968年6月23日)の長瀞には86名もの参加があり、29回(同年11月3日〉の武甲山(80名参加)まで盛況が続いた。埼玉大学の改組により、1968(昭和43)年に文理学部地学研究室は廃止になったが、教育学部の学生が多く参加していた。30回記念にはサメの歯のバッチがつくられた。
 1968年からは、高校数師を中心に、夏休みを利用して日本のタイプロカリティーを毎年1ヵ所ずつ見学する、長期巡検が始められた。また、東部地区では、日曜巡検参加者による地域学習会が始められた。
 しかし、35回(1989年5月)から38回(同年10月)まで埼玉大学の内部問題(大学紛争)で事務処理がルーズになり、見学地も2度目3度目のところばかりになった。それ以後、あまり知られていない場所や県外の新しい見学地を開拓したが、参加者が減少、固定化して、20〜30名くらいしか集まうなくなってしまった。特に児童生徒の参加が急減し、5〜6名くらい(48回と50回の泊まりがけでは0名)になってしまった。

5.51回〜70回(1971年3月〜1973年4月)

 参加者の減少・固定化の改善策が実行された。見学地ふきんの小中学校の理科の教師にハガキを出したり、『日曜巡検』という専門家だけに通じることばを止めて、第51回から『日曜地学ハイキング』と呼ぶようにしたところ、新聞にもお知らせを載せていただくようになった。この効果は大きく、小中学生や一般の人々を中心に参加者が急増した。また、『日躍の地学』を高等学校で副読本として利用し、高校生の参加もふえ、すばらしいレポー卜がたくさん書かれた。しかし、埼玉大学教育学部が地団研に反対する立場を強めたために、大学生の参加が急激に減ってしまった。
 見学地は、団研の成果がだされたり県外にもよいところが開拓された。支部会員も多く参加し、いろいろな階層の参加者にすべて満足していただけるように、会員はみんな赤い帽子をかぶり、参加名に対応できるようにした。

6.71回〜100回〈1973年5月〜1976年3月〉

 支部会員みんなでやっていこうという熱気があり、軌道に乗っていた。1974(昭和49)年4月28日の第81回で、日本(世界?)初の地学オリエンテーリングや、同年11月13日のみかん狩り、翌年9月7日のプラネタリウムなど楽しい新企画が計画、実行された。また、1975(昭和50)年7月から「日曜地学ハイキングニュース」も発行された。この30回のうち、参加者が70名以上になったのが10回にもなり、最盛期をむかえた。
 こんな活気のあるなかで、『日曜の地学』の改訂作業がすすめられ、1975(昭和50)年6月に出版された。一部抜き刷りを高校生版として、副教材に安価で販売したところ、年に6000部も利用された。
 100回記念は支部を上げてお祝いされ、粒度票をつくって参加者に配り、おしること甘酒で乾杯をした。20回のときには表彰はやらないことにされたのだが、会員外の最多参加者に賞が贈られた。
 会員外の教師が生徒を連れて多く参加していたが、支部会員の参加はしだいに減っていく傾向がではじめた。このため、参加会員不足にならないように、地ハイ係を複数にした。

7.101回〜150回(1976年4月〜1981年8月)

 高校新設と、地学T・Uへの移行による普通科での実質的な単位増加のため、高校地学教師の採用がふえ、他支部の学生会員が若手教師会員として多く転入してきた。この若い支部会員が案内役をひきうけ、埼玉支部に溶けこんできたが、会員の参加は少なくなり1回あたり5人くらいになってしまった。
 大きく見ると、教師や高校生の参加がへり、小中学生と一般の親子づれが増え、参加者の単位が学校から家族にうつりつつあり、定着する者が少なかった。日曜地学ハイキング開催の連絡方法を見直し、100回までは参加者名簿によって無料で出していたものを、連絡カード方式にして、ハガキ代の実費をいただいた希望者に出すようにした(約100通)。
 見学地は、団研や個人研究の成果がだされたり、県外にひろく求められたりした。また、地学オリエンテーリングを、年に1度行うようにしていた。
 1978(昭和53年3月5日の120回には、「120回への足あと」がつくられ、支部会員が協力して埼玉銀行が製作したアニメ映画「関東創生記」が上映された。この回はそれまでの地ハイ記録史上で最高の150名の参加があった。

8.151回〜200回(1981年9月〜1986年8月)

 学校の管理強化のためか、野外実習や自然の歴史性を軽視した学習指導要領のためか、中学生を中心に児童生徒の参加がへった。しかし、中高年齢層の熱心な常連がふえ、連絡カードも170を超え、一般市民教育・生涯教育の場として、ひろく受け入れられている。雨天でも集合場所に行くと、20人も来ていて中止にできないようになった。
 常連は単なる見学会では満足できなくなってきており、1986(昭和61)年1月19日の地盤沈下しらべや、同年8月23日〜24日の地質調査体験ハイクには、深い興味をもち、熱心におこなわれ、支部会貝も多く参加した。これからの地ハイの方向を示唆するものと考えられる。しかし、小中学生や初参加者を得るには、貴重な資料の破壊につながる危険もあるが、化石・鉱物の採集が1番のようだ。


前ページへ   目次へ   次ページへ